白村江の戦いの謎|なぜ倭国は海を越えて大軍を送り、敗北の後に国家をつくり変えたのか【5】
水城は、敗戦からわずか一年で造られた
白村江の戦いが起きた翌年の664年、北部九州に水城(みずき)が築かれました。
現在の福岡県太宰府市から大野城市にかけて残る水城跡は、古代日本の大規模な防衛施設を伝える貴重な遺跡です。
太宰府市が紹介する水城の大土塁は、全長約1.2キロメートル、基底部の幅約80メートル、高さ約9メートルという大きな規模を持っています。
土塁の内外には濠が設けられ、水を通すための木樋も確認されています。
ここで、一つの疑問が生まれます。
これほど大きな土木工事を、当時の人々はどのようにして実現したのでしょうか。
現代のように、大型の建設機械やダンプカーがあるわけではありません。
土を掘り、運び、積み上げる作業の多くは、人の力によって行われたはずです。
しかも、ただ土を積めばよいわけではありません。
防衛施設として機能させるためには、十分な高さと強度を確保し、崩れにくい構造を造る必要があります。
大量の土を集める場所も考えなければなりません。
排水や水の流れも重要です。
水城では、土塁の内部に木材を用いた構造や、水を通すための設備が存在していたことも分かっています。
これらは、当時の人々が相当な土木技術を持っていたことを示しています。
では、ここでさらに考えてみます。
白村江の戦いで大きな損失を受けた倭国が、その翌年には巨大な防衛施設の建設を進めています。
戦争によって人員や物資が失われた可能性があるにもかかわらず、国内では大規模な工事が行われたのです。
このことは何を意味するのでしょうか。
少なくとも倭国には、敗戦後も大規模な労働力と資材を集め、土木工事を進める力が残されていました。
ただし、水城が実際に何か月で完成したのか、どれほどの人数が建設に参加したのかは、正確には分かっていません。
それでも、敗戦の翌年にこれほど大きな施設の築造が記録されていることは注目に値します。
倭国は、海外での戦争には敗れた。しかし、国内で巨大なものを造る力まで失ったわけではなかった。
ここに、白村江の敗戦を考えるうえで大切な手がかりがあるように思います。
敗れたれた百済の人々が、倭国の防衛を支えた
白村江の戦いの後、倭国へ渡ってきた百済の人々の中には、さまざまな知識や技術を持つ人々がいたと考えられます。
その存在を考えるうえで重要なのが、665年に築かれた大野城です。
『日本書紀』には、百済から渡来した憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)が、大野城の築造に関わったことが記されています。
大野城は、山の地形を利用しながら土塁や石垣を築いた大規模な山城です。
現在も、山の斜面に築かれた石垣や土塁の遺構が残されています。
ここで注目したいのは、倭国が敗れた戦争の相手ではなく、守ろうとした百済の人々が、その後の倭国の防衛施設づくりに関わったという点です。
百済の人々は、祖国を失いました。
その一方で、彼らが持っていた知識や技術は、海を越えて倭国で生かされることになりました。
これは、戦争の歴史を考えるうえで非常に重要なことではないでしょうか。
国家は滅びても、そこに暮らしていた人々が身につけた技術まで消えてしまうわけではありません。
城を造る技術。
地形を読み取る知識。
石を積む方法。
土を締め固める技術。
人々を配置して工事を進める経験。
そうしたものは、人が移動することによって別の地域へ伝わる可能性があります。
では、百済から渡ってきた人々は、倭国の人々にどのように技術を伝えたのでしょうか。
言葉の違いをどのように乗り越えたのでしょうか。
石垣の積み方や土塁の造り方を、実際の工事現場で教えたのでしょうか。
技術を記した文書や図面のようなものが使われたのでしょうか。
個々の現場で何が行われたのかを示す記録は残されていません。
しかし、百済系の人々が築城に関わったという記録からは、単に知識を持つ人々が移動しただけではなく、異なる地域の人々が共同で大きなものを造った可能性を考えることができます。
そして、もう一つ興味深いことがあります。
倭国は、百済を救うために戦争へ参加しました。
しかし、結果として百済を救うことはできませんでした。
その百済から渡ってきた人々が、今度は倭国自身を守るための施設づくりに関わっています。
戦争には敗れた。しかし、その戦争によって移動した人々の技術が、敗戦後の倭国を支える力になった。
ここに、勝敗だけでは語れない歴史の姿があるように思います。