「ちゃんとしなきゃ」を手放せる場所が、昔の日本にはあった
大人になるほど、
ちゃんと働く。
ちゃんと笑う。
ちゃんと返事をする。
ちゃんと迷惑をかけない。
そんな「ちゃんと」が増えていきます。
でも人は、毎日ちゃんとしていられるわけではありません。
疲れる日もある。
誰にも会いたくない日もある。
何も決めたくない日もある。
昔の日本には、そんな時に少し力を抜ける場所がありました。
縁側。
井戸端。
祭り。
近所の家。
寺や神社の境内。
そこでは、何か特別なことをしなくてもいい。
ただ座る。
誰かと少し話す。
黙っていてもいい。
子どもが遊ぶのを見る。
風に当たる。
お茶を飲む。
私は、こういう場所が人を支えていたと思っています。
今は、つらい時ほど一人で部屋にこもることがあります。
でも昔は、完全に一人になる前に、
誰かの気配がある場所
があった。
それだけでも違ったはずです。
話を聞いてもらわなくてもいい。
励ましてもらわなくてもいい。
ただ、そこにいてもいい。
私は、この感覚がとても大切だと思っています。
人は、いつも役に立たなくてもいい。
いつも元気でなくてもいい。
いつも笑えなくてもいい。
少し休んで、また戻ればいい。
昔の共同体には、
「今は何もしない人」も、そのまま置いておける余白
があったのではないでしょうか。
だから私は、「ちゃんとしなきゃ」と思いすぎる時ほど、昔の日本人の暮らしを思い出します。
誰かのそばにいる。
何も話さない。
でも一人ではない。
そのくらいの距離が、ちょうどいい日もある。
そして、そういう日があってもいい。
人は、頑張っている時だけ価値があるわけではない。
昔の日本には、そのことを静かに教えてくれる場所があったのだと思います。