白村江の戦いの謎|なぜ倭国は海を越えて大軍を送り、敗北の後に国家をつくり変えたのか【6】
白村江の敗戦は、倭国の弱さを明らかにしたのか
ここまで考えてくると、白村江の敗戦について、少し違った見方ができるように思います。
倭国には、多数の船を準備し、軍勢を海外へ派遣する能力がありました。
敗戦後には、巨大な防衛施設を建設する能力もありました。
さらに、百済から渡ってきた人々の技術を取り入れ、新しい築城技術を活用していきました。
つまり、倭国には相当な生産力や技術力が存在していたと考えられます。
では、なぜ戦争に敗れたのでしょうか。
もちろん、その原因を一つに絞ることはできません。
唐・新羅連合軍との軍事力の差、指揮系統、戦闘経験、作戦上の判断など、複数の要因が関係していた可能性があります。
しかし、ここで私たちは一つの仮説を考えてみたいと思います。
倭国に不足していたのは、個々の技術や生産力そのものではなく、それらを国家全体の力として機能させる仕組みだったのではないか。
船を造る職人がいる。
鉄を加工する技術者がいる。
食料を生産する農民がいる。
人を集める力を持った豪族がいる。
それぞれが十分な能力を持っていたとしても、国家全体の目的に向かって動かなければ、大きな力にはなりません。
ここで、単純に中央集権的な国家のほうが優れていると結論づけるつもりはありません。
各地域の実情を理解している人々が、それぞれの判断で動くことにも意味があります。
地域に根差した生産や技術は、長い時間をかけて育てられてきたものだからです。
しかし、海を越えた大規模な戦争のように、複数の地域が同時に動かなければならない場面では、全体の調整が重要になります。
このことを倭国の指導者たちは、白村江の敗戦を通して強く意識したのでしょうか。
もしそうであれば、敗戦後の国家制度の整備は、単なる政治権力の集中だけでは説明できません。
各地の力を把握し、必要なときに組み合わせ、国家として一つの行動を実現するための仕組みづくりだった可能性があります。
この見方は、白村江の敗戦と、その後の国家形成をつなぐ一つの考察です。
ただし、当時の指導者がこのような問題意識を持っていたと直接証明できるわけではありません。
国を守るためには、まず国の中を知らなければならない
白村江の戦いの後、倭国では防衛体制の整備が進められました。
さらに7世紀後半には、戸籍などを通じて人々を把握する制度も整えられていきます。
670年には庚午年籍(こうごねんじゃく)と呼ばれる戸籍が作成されたと『日本書紀』に記されています。
ここで、少し考えてみます。
国が戦争を行うためには、兵士を集める必要があります。
しかし、どこに何人の人が暮らしているのか分からなければ、どの地域からどれほどの人員を集められるのか判断することは難しいでしょう。
食料についても同じです。
どの地域に田畑があり、どれほどの生産が可能なのか。
道路や港についても同じです。
どこを通れば人や物資を運べるのか。
どの場所に防衛施設を築くべきなのか。
こうした情報を把握することは、国家を運営するうえで重要になります。
もちろん、庚午年籍が白村江の敗戦だけを原因として作成されたと断定することはできません。
戸籍制度の整備には、政治制度の変化や大陸の制度の影響など、さまざまな背景がありました。
しかし、敗戦後の防衛体制の整備と、人々や土地をより広く把握しようとする国家形成の動きが、同じ時代に進んでいたことは注目に値します。
ここから、次のような可能性を考えます。
それまで、各地の豪族が主に管理していた人々や生産活動を、国家としても把握しようとする動きが強まったのではないでしょうか。
それは、単に税を集めるためだけではなかったかもしれません。
国を守るためにも、どこにどれほどの力があるのかを知る必要があったのではないでしょうか。
ただし、すべての人や土地が直ちに国家によって正確に把握されるようになったわけではありません。
制度が実際の社会に浸透するには、さらに長い時間が必要でした。
この点でも、白村江の敗戦を一つの完成された国家が経験した戦争として見るのではなく、国家の仕組みそのものが変化していく途中で起きた出来事として捉えることができそうです。