白村江の戦いの謎|なぜ倭国は海を越えて大軍を送り、敗北の後に国家をつくり変えたのか【7】
戦争で失われたものは、兵士と船だけではなかった
白村江の戦いでは、多くの兵士や船が失われたと考えられます。
しかし、ここで忘れてはならないのは、戦争の損失が戦場だけで完結するものではないということです。
兵士として海を渡った人々には、故郷での暮らしがあったはずです。
田畑を耕していた人もいたでしょう。
木を加工する職人も、鉄を扱う技術者もいたかもしれません。
家族を持ち、地域の仕事を支えていた人々もいたはずです。
そうした人々が戦争から戻らなかった場合、その影響は故郷の生活にも及びます。
働き手が減れば、農業や生産活動に負担が生じる可能性があります。
戦争のために船を造り、武器を作り、食料を供給した地域にも、大きな負担がかかっていたかもしれません。
戦争に参加した人々の職業や、その後の地域社会への影響を具体的に示す資料は限られています。
それでも、戦争で失われたものを、軍船の数や兵士の数だけで考えることはできないでしょう。
さらに、敗戦後には防衛施設の建設が始まります。
戦争のために人と物資を送り出した地域が、今度は国を守るための土木工事にも関わった可能性があります。
戦場から遠く離れた場所で暮らす人々にとっても、白村江の戦いは無関係な出来事ではなかったはずです。
歴史書には、天皇や皇子、将軍たちの名前が残ります。
しかし、その判断によって生活を変えられた人々の名前は、ほとんど残されていません。
だからこそ、私たちは史料に書かれていない人々の存在にも目を向けたいと思います。
戦争に勝ったか、負けたか。
それだけでは、その時代を生きた人々の歴史を十分に理解することはできないのではないでしょうか。
敗戦後の国家づくりは、本当に白村江から始まったのか
ここで、前回の乙巳の変と大化改新について考えたことを思い出してみます。
645年、蘇我氏の本宗家が滅ぼされ、政治の中心が大きく変わりました。
その後、国家制度の整備が進められたとされています。
しかし、政治制度を変えようとする動きそのものは、乙巳の変以前から存在していました。
蘇我氏の時代にも、大陸の文化や技術を取り入れ、大規模な寺院を建設し、新しい社会の仕組みを整えようとする活動が進んでいました。
では、白村江の敗戦は、それまで進んでいた国家形成の流れと、どのように関係していたのでしょうか。
私たちは、ここに一つの転換点があったのではないかと考えます。
乙巳の変の前後には、誰が国家の政治を主導するのかという問題がありました。
一方、白村江の敗戦は、その国家が実際にどれほどの力を持ち、どこまで組織的に行動できるのかという問題を突きつけたのかもしれません。
つまり、政治の主導権を握ることと、国家全体を動かすことの違いが、厳しい形で表れたのではないでしょうか。
政治の中心人物が変わっても、それだけで全国の人々や物資が自由に動くわけではありません。
法律を定めても、それを実行する仕組みがなければ社会は変わりません。
命令を出す人がいても、実際に仕事をする人々がいなければ何も完成しません。
国家改革というと、新しい制度や法律の制定に注目しがちです。
しかし、その制度を現実の社会の中で機能させることこそ、非常に大きな課題だったはずです。
白村江の敗戦は、倭国にとって、その課題を改めて考える契機になった可能性があります。
ただし、これも敗戦によってすべてが始まったという意味ではありません。
すでに進んでいた変化が、対外的な危機を通じて、より切実なものになったのではないかという考え方です。