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前方後円墳の謎|なぜ日本各地の豪族は、同じ形の巨大な墓をつくったのか【後編】

2014.10.17

巨大な古墳をつくったのは誰だったのか

ここで、ものづくりの視点から考えてみたいと思います。

前方後円墳をつくるには、大量の土を動かさなければなりません。

土地を測る。

墳丘の位置を決める。

土を掘る。

運ぶ。

積み上げる。

斜面を整える。

必要に応じて石を配置し、埋葬施設をつくる。

そして、完成まで多くの人々が作業を続けます。

現代であれば、設計図を作成し、測量機器を使い、建設機械で工事を進めるでしょう。

しかし、古代には、そのような機械はありません。

人の力と、限られた道具を使って、大きな構造物をつくり上げたのです。

ここで気になることがあります。

各地の前方後円墳は、それぞれの地域の人々が独自につくったのでしょうか。それとも、古墳を築く技術そのものが地域を越えて伝わっていたのでしょうか。

大きな墳丘を安定して築くには、経験が必要です。

土の性質を知ること。

斜面の崩れを防ぐこと。

作業の順番を考えること。

道具や材料を準備すること。

そして、多くの人々が協力できるように作業を進めること。

そのような技術や経験を持つ人々が、地域を移動しながら古墳の築造に関わっていた可能性も考えられます。

あるいは、各地の人々が実際の古墳を見て、その形や工法を取り入れたのかもしれません。

もちろん、すべての前方後円墳を同じ技術者集団がつくったと考える根拠はありません。

それでも、共通する形を持つ巨大な構造物が各地に築かれたことは、技術の伝わり方を考えるうえでも興味深いものです。

技術は、どのように広がったのか

ものづくりの技術は、道具や材料が移動するだけでは伝わらないことがあります。

例えば、同じ道具を手に入れても、その使い方を知らなければ、同じ仕事ができるとは限りません。

材料の性質。

加工の順序。

作業の工夫。

失敗したときの対処方法。

そうした知識は、実際に仕事をする中で身についていきます。

古代の人々も、同じだったのではないでしょうか。

ある地域で新しい建設方法が生まれたとします。

その技術を持つ人が別の地域へ移動すれば、新しい土地でも同じような仕事ができるかもしれません。

また、異なる地域の人々が一緒に働けば、互いの方法を学ぶこともできるでしょう。

前方後円墳の築造に、そのような技術交流があったのかどうかは分かっていません。

しかし、第6回で取り上げた纒向遺跡には、各地の文化と関係する土器が集まっていました。

そこには、人や物が地域を越えて移動していたことを考える手がかりがあります。

もし、そのような交流の中で建設技術も伝わっていたとしたら。

前方後円墳の広がりは、政治的な関係だけではなく、ものづくりの技術が地域を越えて共有されていく過程でもあったのかもしれません。

古墳は、死者のためだけにつくられたのか

古墳は、亡くなった人を葬る場所です。

しかし、それだけだったのでしょうか。

巨大な前方後円墳は、遠くからでも目立つ存在です。

平野の中に大きく盛り上がる墳丘。

丘陵の上につくられた墓。

川や交通路の近くに位置する古墳。

そのような場所に巨大な構造物があれば、そこを通る人々の目に入ったはずです。

古墳は、亡くなった人の記憶を残すだけではなく、その土地に特別な人物や集団が存在したことを示す役割も持っていたのではないでしょうか。

そして、古墳を築く作業そのものにも意味があった可能性があります。

多くの人々が集まる。

同じ目的に向かって作業する。

完成した墓を共有する。

そこには、地域の人々の関係を確かめる機会もあったかもしれません。

ただし、実際に働いた人々が、どのような気持ちで古墳を築いていたのかは分かりません。

自ら参加した人もいたでしょう。

命令によって働いた人もいたかもしれません。

それでも、巨大な古墳を完成させるには、多くの人々の仕事が必要だったことに変わりはありません。

私たちは古墳を見ると、そこに葬られた王や豪族に注目しがちです。しかし、本当にその形をつくり上げたのは、名前の残っていない多くの人々だったのです。

古墳の広がりは、支配の広がりだったのか

前方後円墳が日本各地に広がったことは、ヤマト王権の発展を考える重要な手がかりとされています。

しかし、私はここでも、支配という言葉だけで説明してよいのかと考えます。

ある地域に前方後円墳が築かれた。

その地域と大和に関係があった可能性は考えられます。

しかし、その関係がどのようなものだったのかは、別の問題です。

直接支配されていたのでしょうか。

対等に近い協力関係だったのでしょうか。

あるいは、地域ごとの事情によって関係のあり方が異なっていたのでしょうか。

日本列島は広大です。

山や海によって隔てられた地域もあります。

産業も、暮らし方も、利用できる資源も異なっていました。

そのような地域を、一つの政治的な仕組みにまとめていくことは、簡単ではなかったはずです。

だからこそ、私は、古代の王権がどのような方法で各地の人々と関係を築いたのかに興味を持ちます。

武力による支配もあったかもしれません。

婚姻による結びつきもあったでしょう。

交易や技術交流、祭祀を通じた関係も考えられます。

前方後円墳は、そうした複雑な関係の中で広がっていったのかもしれません。

古い地域社会は、なくなったのか

第5回では、三輪山と大田田根子の伝承から、古い土地の信仰と新しい王権の関係を考えました。

そこには、王が古い神を祀るために、その神につながる人物を必要としたという物語がありました。

そして、第6回の纒向遺跡では、各地から人々や文化が集まる姿を考えました。

第7回の箸墓古墳では、多くの人々の力によって巨大な墓が築かれた可能性を探りました。

こうして振り返ると、一つの共通する疑問が見えてきます。

新しい王権が生まれ、広がっていく中で、それ以前から存在していた地域社会は、どうなったのでしょうか。

新しい勢力が現れたからといって、それまでの人々の暮らしが突然なくなるわけではありません。

田畑も残ります。

道も、水路も残ります。

道具をつくる人々も、技術を受け継いできた人々も、その土地で生活を続けていたはずです。

そして、祖先への信仰や地域の習慣も、簡単には消えなかったでしょう。

もし新しい政治的な関係が生まれたとしても、その社会を支えるためには、以前から存在していた人々の力が必要だったのではないでしょうか。

前方後円墳という共通した墓の形が広がる一方で、各地の文化や生活は、それぞれの特徴を持ち続けていました。

そこには、共通する仕組みを取り入れながらも、地域ごとの社会が受け継がれていく姿があったのかもしれません。

同じ形の墓が伝えているもの

最後に、もう一度、日本各地に広がる前方後円墳を思い浮かべてみたいと思います。

奈良の箸墓古墳。

大阪の巨大な古墳群。

瀬戸内海沿岸の古墳。

東海や北陸、関東に築かれた前方後円墳。

遠く離れた土地に、共通する形の墓が残されています。

そこには、かつてそれぞれの地域で暮らし、人々をまとめ、社会を支えていた人物が葬られていたのでしょう。

しかし、その人物たちが、互いにどのような関係を持っていたのかは、まだ十分に分かっていません。

大和の王に従っていたのでしょうか。

協力しながら新しい仕組みをつくっていたのでしょうか。

あるいは、地域によって異なる関係が存在していたのでしょうか。

私には、前方後円墳の広がりが、単純に一つの勢力が日本列島を支配していった歴史だけを表しているとは思えません。

そこには、さまざまな土地に暮らしていた人々が出会い、対立し、協力しながら、新しい関係を築いていった長い時間があったのではないでしょうか。

そして、その過程で、ものづくりの技術も、信仰も、社会の仕組みも変化していったのかもしれません。

同じ形の墓をつくるようになったからといって、すべての地域が同じ社会になったわけではない。

むしろ、異なる地域が、それぞれの特徴を持ちながら、どのように結びついていったのか。

そこに、古代日本の成立を考える大きな手がかりがあるように思います。

古墳に葬られた人物の名前が分からなくても、その土地で人々が大きな仕事を成し遂げたことは、墳丘という形で今に伝わっています。

そして、巨大な前方後円墳を築く文化は、時代とともに変化していきます。

次回は、その前方後円墳の中でも、日本最大級の規模を誇る大阪の百舌鳥・古市古墳群に目を向けてみたいと思います。

なぜ、巨大な墓を築く中心が大和から河内へ移っていったように見えるのでしょうか。

その変化から、古代王権とものづくりの歴史を、さらに探っていきたいと思います。

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