蘇我氏は、仏教を広めただけの一族だったのか
蘇我氏と聞くと、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿。
そして最後には滅ぼされた豪族。
そんな政治史の中で語られることが多い一族です。
しかし、飛鳥の土地に残っているものを見ると、少し違う姿が見えてきます。
588年、蘇我馬子の発願によって飛鳥寺の造営が始まりました。
日本で最初の本格的な仏教寺院です。
ここで大切なのは、馬子一人が寺を建てたわけではないということです。
奈良県立万葉文化館は、飛鳥寺について、百済から渡来した工人の技術によって造営されたと説明しています。
寺を一つ造るには、大勢の技術者が必要です。
土地を整える人。
木を切る人。
柱を加工する人。
瓦を焼く人。
金属を扱う人。
仏像を作る人。
そして、それぞれの仕事をつなぐ人。
外国から来た技術者だけでも完成しません。
その技術を受け取り、一緒に作る土地の人たちも必要だったはずです。
すると飛鳥寺は、単に仏教という新しい宗教を受け入れた場所ではなく、新しい建築、瓦、金属加工、美術などの技術が集まった巨大なものづくりの現場だったことになります。
蘇我氏が行ったことを「仏教を広めた」とだけ見ると、この部分が消えてしまいます。
新しい文化を受け入れるということは、新しい技術を受け入れることでもあります。
そして外国から来たものを、そのまま使うだけでは文化にはなりません。
そこで暮らす人が覚え、自分たちで作り、次の世代へ伝える。
飛鳥寺の建設には、その最初の大きな実験場のような側面もあったのではないでしょうか。
蘇我氏とは、新しい考え方だけではなく、新しい人と技術を受け入れ、それを日本の中につなげた集団だったのかもしれません。