東大阪の研究開発現場から生産現場までの「ものづくり」なら【株式会社アリス】試作サンプル、切削加工、精密部品加工、可視化部品製作、透明化処理、現物からの製作、単品OK

須恵器はなぜ日本中へ広がったのか

2013.08.15

須恵器はなぜ日本中へ広がったのか

古墳時代の遺跡を見ていると、日本各地から灰色の硬い器が出てきます。

須恵器です。

それまで多く使われていた土師器とは、見た目から違います。

赤や茶色ではない。

灰色や黒っぽい色。

叩くと硬い。

そして、それを焼くためには1000度を超える高温が必要です。

国立歴史民俗博物館は、朝鮮半島の影響を受けて登場した須恵器が、古墳時代にまたたく間に各地へ普及したと説明しています。

でも、ここで疑問が出てきます。

なぜ、そんなに早く広がったのでしょう。

良い器だったから。

それだけでしょうか。

須恵器を作るには、窯が必要です。

ろくろが必要です。

粘土を選ぶ知識が必要です。

薪も大量に必要です。

つまり、完成した器を一個持ってきても、同じものは作れません。

作り方そのものを知る人が必要になります。

大阪府の陶邑窯跡群では、5世紀から約500年間にわたり須恵器が生産されました。

確認された窯は約400基。

東西約10キロ、南北約6キロに広がる巨大な生産地でした。

一方で、福岡県の朝倉須恵器窯跡では、陶邑とほぼ同じ時期に須恵器生産が始まっています。

つまり、最初から一か所だけで作られ、全国へ完成品を送り続けたわけではありません。

各地でも窯が作られています。

さらに福岡県の牛頸須恵器窯跡では、約500基もの窯があったと推定され、奈良時代には北部九州全体へ須恵器を供給していました。

ここまで来ると、須恵器の広がり方が少し見えてきます。

最初は器が動いた。

次に、それを作れる人が動いた。

その土地で新しい職人が育った。

そして、その土地にも窯ができた。

そこからまた別の場所へ器が運ばれる。

つまり須恵器の広がりは、商品の流通だけではありません。

技術者の移動。

技術の伝承。

地域ごとの生産。

その三つが重なった結果だったのではないでしょうか。

面白いのは、地方で作られた須恵器が、ずっと同じ形ではないことです。

朝倉須恵器窯跡では、最初は朝鮮半島の加耶系の特徴を持つ器が作られ、やがて陶邑系の作り方へ変化していきます。

技術の流れが、器の形に残っているのです。

文字がなくても、

「ここに誰かが来た」

「新しい作り方を覚えた」

そんな痕跡が器から見えてきます。

須恵器は、ただの古い焼き物ではありません。

古代日本を人と技術がどう移動したのかを残した、手がかりなのではないでしょうか。

                 一覧へ戻る
アリスの仕事に対する想いを見る オリジナルサンプル制作