越に集まった技術と人々――古代日本海のものづくり集団
――小さな石の穴から見えてきた、知られざる技術交流
今から約2,200年前。
現在の石川県小松市にあたる土地で、一人の職人が小さな緑色の石を手にしています。
石の表面を削り、丁寧に形を整える。
その石に、細い穴を開けていく。
少しでも力の加え方を間違えれば、石が割れてしまうかもしれません。
それでも職人は、石の性質を見極めながら作業を続けます。
やがて、美しく磨かれた小さな管玉が完成しました。
これは当時の作業を想像した一場面です。
しかし驚くことに、こうした加工が実際に行われていたことを示す道具や未完成品が、北陸の遺跡から大量に発見されているのです。
そして、その出土品を調べていくと、古代の越には、単なる交易を超えた高度なものづくりの世界が広がっていたことが見えてきます。
遺跡から出てきた、古代の製造工程
石川県小松市の八日市地方遺跡。
弥生時代中期を中心に栄えたこの大規模集落からは、膨大な数の木製品や石製品、加工道具が発見されています。
特に注目したいのが、碧玉を使った管玉づくりです。
完成した管玉だけではありません。
原石、加工途中の材料、石を切るための石鋸、穴を開けるための石針。
材料から完成品まで、ものづくりの工程を追える資料が残されていたのです。
石川県の資料によれば、管玉の穴を開けるために用いられた石針には、直径約1ミリメートルのものもあります。
約2,200年前の人々が、それほど細かな加工を行っていた。
現代のものづくりを知る人なら、この事実に思わず立ち止まるのではないでしょうか。
小さな穴を開けるだけでも、材料の保持、工具の選定、力の加減、加工中の破損への対応が必要です。
まして相手は天然石。
内部の状態まで均一とは限りません。
古代の職人たちは、経験を重ねながら材料を理解し、加工技術を磨いていたのでしょう。
550キログラムもの碧玉が語るもの
さらに驚く数字があります。
小松市によると、八日市地方遺跡からは、総重量約550キログラム分の碧玉が発見されています。
その材料の供給源の一つが、小松市南部の滝ケ原周辺です。
滝ケ原には碧玉の岩脈があり、古代の人々が石材を採取した痕跡が残っています。
ここで注目したいのは、材料の量です。
一つの装飾品をつくるために、550キログラムもの原石が必要だったわけではありません。
大量の材料が集められ、加工されていた。
つまり、継続的な生産活動が行われていたことがうかがえます。
材料を採る人。
運ぶ人。
加工する人。
完成品を各地へ届ける人。
こうした活動が積み重なり、ものづくりを中心とした人々のつながりが育っていったのでしょう。
そして、越の人々が扱っていたのは、碧玉だけではありませんでした。
海を越えて届いた、鉄の工具
八日市地方遺跡からは、柄の付いた鉄製のヤリガンナも発見されています。
木材の表面を削ったり、形を整えたりするための工具です。
この出土品は、日本列島における初期の鉄製工具を考えるうえで重要な資料とされています。
さらに、さまざまな鉄斧に対応する木柄も見つかっています。
ここで、不思議な関係が浮かび上がってきます。
石川県立歴史博物館は、弥生時代の北陸について、中国や朝鮮半島から日本海を通じて青銅器や鉄器が入り、北陸でつくられた翡翠や碧玉の玉類が西日本へ広く流通したと説明しています。
西方から鉄が届き、越から美しい玉が送り出される。
しかも、受け取った鉄は飾っておくだけのものではありません。
木を削り、道具をつくり、暮らしを支えるために使われました。
ここで考えたいことがあります。
鉄製工具を受け取った職人たちは、使い方をどのように覚えたのでしょうか。
工具だけが運ばれたのでしょうか。
それとも、工具の扱い方を知る人々も一緒に海を渡ってきたのでしょうか。
技術は、人とともに移動する
一つの道具を見ただけで、その使い方や加工条件を完全に理解できるとは限りません。
材料には特性があります。
工具にも適切な使い方があります。
加工する順番によって、仕上がりも作業効率も変わります。
高度な技術を習得するには、実際に使ってみること、経験者から教わること、失敗を重ねて改善することが重要です。
これは現代の製造現場でも同じです。
そう考えると、古代の技術交流は、完成した製品を交換するだけでは成立しなかったのではないでしょうか。
海を渡ってきた職人が、越の人々に技術を伝えた。
越で技術を身につけた人々が、今度は別の地域へ移動した。
そのような交流が繰り返されていたとすれば、ものづくりの技術は日本海沿岸へ広く伝わっていきます。
そして、その交流を示す遺跡が、越の西側にも残っています。
山陰の港にも、同じ技術が現れる
鳥取県の青谷上寺地遺跡。
かつて日本海につながる潟湖に面し、港を利用した交流が行われていたと考えられる集落です。
ここからは、精巧な木製容器、鉄製工具、玉づくりに関わる資料が発見されています。
注目したいのは、北陸産の碧玉です。
青谷の人々は、北陸から材料を入手し、自分たちの集落でも管玉を加工していました。
つまり、越で採れた石が山陰へ運ばれ、そこで別の職人たちの手によって製品になっていたのです。
さらに、青谷では中国や朝鮮半島、北部九州に関係する品々も見つかっています。
ここに、古代日本海のものづくりの姿が現れます。
越が材料を供給し、山陰で加工する。大陸から届いた工具を利用し、完成した製品がさらに別の土地へ運ばれる。
一つの集落だけで完結しない、広域の生産活動です。
現代の私たちは、こうした仕組みを分業や供給網として理解します。
けれども、当時の人々にとっては、古くから付き合いのある集落と必要なものを交換する、日常の営みだったのかもしれません。
越は技術を受け取るだけの土地だったのか
ここで、日本列島の歴史を見る方向を変えてみます。
一般に古代の技術交流というと、大陸から九州へ、そして畿内へという流れを思い浮かべることがあります。
しかし、八日市地方遺跡や青谷上寺地遺跡の出土品からは、日本海にも重要な技術交流の道があったことが分かります。
しかも越は、技術を受け取るだけの土地ではありませんでした。
糸魚川周辺の翡翠。
加賀の碧玉。
それらを加工する技術。
木製品を製作する技術。
越の人々は、自分たちの土地の資源を生かしながら、各地へ品物を送り出していたのです。
越は、大陸と日本列島を結ぶ技術の受け入れ口であり、同時に各地へ技術や製品を送り出す拠点でもあった。
そう考えると、古代日本における越の重要性は、さらに大きく見えてきます。
もし技術者たちが移住したら
もう一つ考えてみたいことがあります。
交易によって結ばれた集落では、人々が互いの土地を訪れ、交流を重ねていたはずです。
その関係が何世代にもわたって続けば、婚姻や移住によって家族や一族のつながりも広がっていきます。
では、ある地域で大きな争いが起きたら、どうなるでしょうか。
家族や仲間を守るために、別の土地へ移動する人々もいたでしょう。
その中に、優れた加工技術を持つ職人がいたとしたら。
新しい土地へ移った職人は、自分の技術まで故郷に置いてくるわけではありません。
経験も、知識も、ものづくりの工夫も一緒に運ばれていきます。
受け入れる集落にとっても、それは新しい技術を得る機会になります。
こうして、交易によって生まれた人々のつながりが、移住と技術の伝播を支えることもあったのではないでしょうか。
技術が人々を結び、人々の移動が新たな技術を広めていく。
越の歴史を調べるうえで、この循環は見逃せません。
まだ見えていない、本当の主役
八日市地方遺跡には、加工途中の玉や工具が残されています。
青谷上寺地遺跡には、北陸産の石材を使ったものづくりの痕跡があります。
そして、その背景には、海を渡って材料や技術を運んだ人々がいました。
しかし、その職人たちの名前は、ほとんど残されていません。
誰が最初に石の加工方法を考えたのか。
誰が鉄製工具を持ち込み、使い方を伝えたのか。
誰が船を操り、遠い土地の人々と交流を続けたのか。
歴史書に名前がなくても、仕事の成果は残っています。
道具は、つくった人の名前を語らなくても、その人が持っていた技術を伝えてくれるのです。
そして、越にはまだ大きな謎があります。
これほどの技術と交流を持つ人々は、どのような共同体を築いていたのでしょうか。
その共同体をまとめ、遠方との関係を保っていたのは誰だったのでしょうか。
次回は、出雲と越の関係をさらに深く追います。
同じ形の墓、遠くから運ばれた品々、そして古い婚姻の伝承。
なぜ、出雲と越は、これほど深く結びついていたのか。
その先に、思いがけない歴史が待っているかもしれません。
第7話「出雲と越を結ぶもの――海を渡った一族の記憶」へ続きます。