衣川の最期と義経北行伝説|義経一行は本当に滅びたのか【2】
津軽海峡を越えることは、本当に不可能だったのか
北海道と本州の間には津軽海峡があります。
現在でも船舶の航行には、風や波、潮流などの条件を考える必要があります。
しかし、人々が津軽海峡を越えて交流していた歴史は、義経の時代よりはるか以前から存在します。
北海道南部と東北北部では、土器や鉄製品などの出土品から、長い年月にわたる交流が知られています。
北海道で使われていた品々の中には、本州から運ばれたものがあります。
反対に、北海道の産物が本州へ運ばれたことも考えられています。
鉄製品、陶器、米、漆器など。
そして、毛皮や海産物などの北方の産物。
こうした品々の移動には、海峡を渡る人々が関わっていました。
つまり、12世紀に本州から北海道へ渡ることそのものは、特別に不可能な行動ではありませんでした。
重要なのは、誰が船を持ち、どの航路を知り、どこに協力者がいたのかということです。
私たちは、義経一行が北方世界の人々とつながっていたという仮説を考えています。
その仮説に立つならば、津軽海峡を越えるための技術や人的な関係を持っていた可能性があります。
ただし、義経本人が海峡を越えたことを直接示す記録や出土品は確認されていません。
それでも、北海道へ渡るという伝承を考えるうえで、当時の人々に渡海する能力があったという事実は重要です。
問題は、渡れたかどうかではなく、義経一行が実際に渡ったのかということなのです。
北海道に残る義経の足跡
義経北行伝説は、津軽海峡を越えた先にも続いています。
北海道南部には、義経一行が上陸したと伝えられる場所があります。
さらに日高地方の平取町には、義経神社があります。
義経神社は、江戸時代後期の1799年、蝦夷地の調査に関わった近藤重蔵らによって義経が祀られたことに始まるとされています。
そのため、現在の神社の存在をそのまま12世紀の義経の足跡と考えることはできません。
しかし、なぜ江戸時代の人々が北海道のこの地域に義経を祀ろうとしたのかという問題は、考える価値があります。
平取は、沙流川流域に位置しています。
この地域には、アイヌの人々が長く暮らし、独自の生活や文化を築いてきた歴史があります。
そして、義経が北海道へ渡り、現地の人々と交流したという物語も残されています。
義経が農業や船の扱い方、機織りなどの技術を教えたという伝承もあります。
しかし、ここで注意したいことがあります。
北海道の人々が、義経の到来によって初めて生活技術を得たという考え方は適切ではありません。
北海道には義経の時代よりはるか以前から、人々の暮らしがありました。
漁労、狩猟、植物の利用、舟による移動、交易など、多様な生活技術が発達していました。
また、後世の義経伝説には、本州側の人々が持っていた価値観や、北海道の人々に対する見方が反映されている部分もあります。
そのため、義経が現地の人々に一方的に文化を教えたという物語を、そのまま受け取ることはできません。
私たちは、もし義経一行が北海道へ渡ったのであれば、そこには一方的に教える側と教えられる側という関係ではなく、互いの技術や経験を持ち寄る交流があったと考えます。
義経一行には馬や移動に関する経験があった。
北海道の人々には、その土地の気候や自然、海や川の利用に関する経験があった。
異なる技術を持つ人々が出会えば、互いに学び合うこともできたはずです。
私たちは、そのような人々の関係こそ、運命共同体の広がりとして考えたいと思っています。
北海道から樺太、さらに大陸へ向かう道
義経北行伝説には、北海道で終わらず、さらに大陸へ渡ったという話もあります。
ここで、北方世界の地理を見てみましょう。
北海道の北には宗谷海峡があります。
その先には樺太があります。
さらに樺太の西側には、アジア大陸が広がっています。
樺太と大陸の間には、現在の間宮海峡などの海域があります。
これらの地域では、古くから海を利用した交流がありました。
漁労や海獣の利用を生活の中心とする人々がいました。
河川を利用して内陸へ移動する人々もいました。
毛皮や鉄製品などの交易に関わる人々もいました。
大切なのは、現在の国境をそのまま12世紀の地理に重ねないことです。
当時の人々にとって、北海道、樺太、大陸は、現代の国家制度によって明確に区切られた世界ではありませんでした。
もちろん、海峡や山地といった自然の障害はありました。
また、地域ごとに異なる文化や言語を持つ人々が暮らしていました。
しかし、交流の経路が存在すれば、異なる地域の人々が接触することはできます。
私たちは、義経一行が北方世界にルーツを持つ運命共同体だったと考えています。
そのため、義経一行が北へ移動したのであれば、それは初めて見る土地へ逃げていくということではなく、以前から交流のある地域へ向かう行動だったという仮説を持っています。
この考え方では、北方への移動は、単なる逃亡ではありません。
仲間との関係を頼り、次の生活の場へ移動することだったと考えます。
ただし、樺太や大陸へ渡った人物が義経本人だったのか、義経の仲間だったのか、それとも後世に義経と結びつけられた別の人々だったのかは、まだ明らかではありません。
義経一行は、なぜ北へ戻ろうとしたのか
ここで、これまでの歴史探訪で考えてきた移動経路を振り返ってみたいと思います。
私たちは、義経一行の背景に、日本列島と大陸の間を移動してきた人々の歴史があったと考えています。
大陸の騎馬文化。
北方の交易。
北海道と東北の交流。
平泉の奥州藤原氏。
京都や関東の政治勢力。
そして、頼朝との協力と対立。
これらの出来事を一つの流れとして考えると、義経一行の行動には、単なる戦争とは異なる意味が見えてきます。
私たちは、義経一行が最初から日本列島を征服する目的で移動してきたとは考えていません。
異なる地域の人々と交流し、協力関係を築き、自分たちの生活や活動の場を広げようとしていたという仮説です。
しかし、頼朝との関係が悪化し、義経一行は政治的に追われる立場になりました。
さらに、義経を守っていた秀衡も亡くなりました。
もし平泉での生活を維持できなくなったのであれば、別の土地へ移動する必要が生まれます。
そのとき、どこへ向かうのでしょうか。
まったく知らない土地へ向かうよりも、以前から人々のつながりがある場所を選ぶのではないでしょうか。
食料を確保できる。
仲間がいる。
移動経路を知っている。
必要な技術を持つ人々と協力できる。
そのような場所であれば、新しい生活を始めることも考えられます。
私たちは、義経一行が北方世界へ戻ったという仮説を、このような共同体の行動として考えています。
そこには、義経という一人の英雄が逃げ延びるという物語とは異なる、人々の生活と移動の歴史があります。