楠木正成 湊川の戦い。勝つための道を考えた武将は、なぜ敗れる戦いへ向かったのか【4】
1336年5月25日、湊川の戦い
ついに、足利尊氏の軍勢が兵庫へ迫ります。
1336年5月25日、湊川の戦いが始まりました。
『太平記』には、尊氏が多数の船を率いて海上から進み、弟の直義が陸路から攻撃した様子が描かれています。
その兵数や船の数には誇張があると考えられますが、尊氏側が海陸の両方から軍勢を進めたことは、戦いの大きな特徴です。
義貞の軍勢は和田岬方面で尊氏側と対峙しました。
しかし、足利方の別働隊が東の生田方面へ上陸したことで、義貞の軍勢は背後を脅かされる危険に直面します。
義貞は東方へ移動し、やがて京都方面へ退くことになりました。
その結果、湊川付近で戦っていた正成の軍勢は孤立します。
正成は、足利直義らの軍勢と戦い続けました。
しかし、兵力や配置の面で不利な状況は深まっていきます。
周囲から敵の攻撃を受け、戦いを続けることが難しくなりました。
ここで、もう一度考えてみたいことがあります。
もし義貞の軍勢が別の場所に配置されていたら、結果は変わっていたのでしょうか。
尊氏側の上陸地点を事前に把握できていたら、違う対応ができたのでしょうか。
あるいは、正成が進言したと伝わる、京都を一度離れる戦略を採用していたら、どうなっていたのでしょう。
歴史に「もしも」という答えを出すことはできません。
しかし、実際に起きた結果だけを見て、正成や義貞の判断を簡単に評価することもできないと思います。
彼らは、未来の結果を知らないまま、その場で判断していたからです。
正成と正季、最後の時間
戦いの末、正成は弟の正季らとともに命を落としました。
『太平記』には、兄弟が最後に互いの思いを確かめ合い、ともに自害したという場面が描かれています。
その言葉は、後世に広く知られるようになりました。
しかし、私は、その場面をただ美しい忠義の物語として受け取るだけでは、何か大切なものを見落としてしまうように感じます。
正成と正季は、長い時間をともに生きてきた兄弟です。
河内で育ち、鎌倉幕府との戦いを経験し、新しい政治が始まった後も、変化する時代を生きてきました。
二人は、どのような兄弟だったのでしょうか。
普段から同じ意見だったのでしょうか。
それとも、ときには考え方が違い、意見を交わすこともあったのでしょうか。
そのような日常を伝える記録は、ほとんど残っていません。
それでも、湊川で二人がともに戦い、命を落としたという事実は、彼らの人生が深く結びついていたことを示しています。
そして、命を落としたのは正成と正季だけではありません。
正成に従って戦った多くの人々も、戦場で命を失いました。
彼らにも家族がいたでしょう。
故郷で待つ人々がいたでしょう。
戦いが終われば、また河内へ戻りたいと考えていた人もいたかもしれません。
歴史には、指揮官の名前が残ります。
しかし、その周囲にいた人々の人生が、指揮官より軽かったわけではありません。
湊川で失われたのは、一人の英雄の命だけではなかったのです。
新田義貞は、正成を見捨てたのか
湊川の戦いでは、義貞の軍勢が退いたことで、正成が孤立する結果となりました。
そのため、後世には義貞の行動を批判的に捉える見方も生まれました。
しかし、私は「義貞が正成を見捨てた」と簡単に結論づけることには慎重でありたいと思います。
義貞にも、率いている軍勢がありました。
その兵士たちをどのように動かすのか。
敵に退路を断たれた場合、どのように対応するのか。
そして、京都へ続く道をどう守るのか。
義貞は、義貞の立場で判断しなければなりませんでした。
もしその場に踏みとどまれば、正成を助けることができたのでしょうか。
それとも、義貞の軍勢まで包囲され、さらに多くの命を失っていたのでしょうか。
実際の戦況について、すべてを正確に知ることはできません。
だからこそ、一方の武将だけを責めるのではなく、双方がどのような状況に置かれていたのかを考える必要があります。
義貞が戦場から退いたという結果だけを見れば、正成との関係が断たれたように感じるかもしれません。
しかし、義貞自身も、その後、後醍醐天皇方として戦い続けることになります。
義貞にとっても、湊川は人生の終着点ではなかったのです。