巴御前は本当に実在したのか。八百年の時を超えて語り継がれた女武者の謎【1】
歴史の記録には残らなかった一人の女性。なぜ人々は、その名前と人生を忘れなかったのだろう。
1184年、近江国の粟津。
木曾義仲は、源頼朝が派遣した軍勢との戦いに敗れ、わずか31歳で生涯を閉じた。
その最後の戦場には、巴御前という女性がいたと伝えられている。
強弓を引き、大太刀を振るい、荒馬を乗りこなす。義仲が一隊の大将として戦わせるほどの能力を持ち、最後まで主君のそばを離れなかった女武者である。
『平家物語』には、その勇敢な姿が鮮やかに描かれている。
私たちはこれまで、巴御前が育ったとされる木曾の地を訪ねるようにして、義仲や今井兼平、樋口兼光たちとの関係を考えてきた。
山吹御前や葵御前という、同じ時代を生きたと伝えられる女性たちの存在にも目を向けた。
さらに、義仲の死後、和田義盛の妻になったという話や、91歳まで生きたという伝承、各地に残された墓や供養塔についても調べてきた。
こうして一人の女性の生涯を追いかけていると、巴御前が本当に八百年以上前の日本を生きていたように感じられてくる。
しかし、ここで私たちは、避けて通れない疑問に向き合うことになる。
そもそも、巴御前は本当に実在した女性だったのだろうか。
これほど有名でありながら、彼女が生きていたとされる時代の確かな記録には、その名前が確認されていないのである。
では、巴御前は物語の中で生まれた架空の人物だったのだろうか。
それとも、実際に存在した女性の記憶が、長い年月を経て物語へと変わっていったのだろうか。
今回は、巴御前という人物が歴史に現れた過程をたどりながら、私たちが知っている歴史とは何なのかを考えてみたい。
義仲の名前は残った。しかし、巴御前の名前は見つからない
木曾義仲は、歴史上の実在が確認されている人物である。
源氏の一族として信濃で挙兵し、北陸で平氏軍を破り、京都へ進んだ。
その後、源頼朝と対立し、源義経らが率いる軍勢に敗れて命を落とした。
こうした義仲の行動は、『平家物語』だけでなく、朝廷の貴族たちが残した日記や、後に編纂された歴史書などからもたどることができる。
たとえば、当時の公家である九条兼実が記した『玉葉』には、義仲が京都に進出した時期の政治情勢が記録されている。
また、鎌倉幕府の歴史を編年体でまとめた『吾妻鏡』にも、義仲やその周囲の人物たちが登場する。
これらの記録を読み比べることで、義仲がどのような時代に生き、どのような政治的な立場に置かれていたのかを考えることができる。
しかし、巴御前については事情が異なる。
彼女の武勇を直接裏づける同時代の記録は、現在のところ確認されていない。
『吾妻鏡』にも、巴御前という名前は見つからない。
もし巴が本当に義仲軍の一隊を率い、最後の戦場まで活躍していたのなら、なぜ記録されていないのだろう。
ここで、最初に考えられるのは、巴御前という人物が実在しなかった可能性である。
『平家物語』の作者や語り手が、義仲の最期を印象的に描くため、勇敢な女性の人物像を生み出したのかもしれない。
しかし、もう一つの可能性もある。
実際に存在した女性であっても、記録に名前が残らなかったのかもしれない。
私たちが現在読むことのできる歴史の記録は、当時生きていたすべての人間の行動を記したものではない。
誰が、どのような目的で、何を書き残したのか。
その判断によって、記録される人物も出来事も変わってくる。
朝廷の政治を記録する貴族の日記であれば、朝廷の人事や政治的な交渉が中心になるだろう。
鎌倉幕府の歴史を記した書物であれば、幕府の成立や御家人たちの行動が重要になる。
その中で、敗れた義仲に仕えていた一人の女性が、必ず記録されるとは限らない。
ただし、記録が残っていない理由を、このように説明できるからといって、巴の実在が証明されるわけではない。
記録にないことは、存在しなかった証拠にはならない。
しかし同時に、存在した証拠にもならないのである。
この二つを混同しないことが、歴史を考えるうえで大切なのだと思う。