楠木一族と南北朝合一。五十六年の争いは、本当に終わったのか【2】
正成が守り抜いた千早城に、再び敵が迫った
1333年。
楠木正成は、
足利義満は、なぜ南北朝を一つにしようとしたのか
南北朝合一を実現させた中心人物は、室町幕府三代将軍の足利義満でした。
義満が将軍になったのは1368年。
まだ幼い年齢でした。
その後、義満は成長とともに幕府の政治的な力を強め、有力な守護大名たちとの関係を調整していきます。
当時の室町幕府は、将軍が命令すれば全国の武士たちが無条件に従うような組織ではありませんでした。
各地の守護大名は独自の軍事力や経済力を持ち、それぞれに利害がありました。
幕府の内部でも、有力武将たちの対立が続いていました。
義満にとっては、南朝との争いだけでなく、幕府内部の勢力をまとめることも重要だったのです。
そのような状況で、南北朝の対立を終わらせることには、大きな政治的な意味がありました。
二つの朝廷が存在していれば、幕府に不満を持つ武士たちが南朝を支持することによって、別の政治的な立場を取ることができます。
しかし、朝廷が一つになれば、そのような対立の構図も変わっていきます。
義満は、戦いを終わらせることによって、政治的な安定を得ようと考えたのでしょうか。
それとも、幕府の権力をさらに強めることを重視していたのでしょうか。
おそらく、その二つは必ずしも対立するものではなかったと思います。
争いが終われば、人々の生活が安定する可能性があります。
同時に、幕府にとっても政治を進めやすくなります。
ただし、幕府にとって望ましい和平が、南朝を支えてきたすべての人々にとって同じように望ましいものだったとは限りません。
ここに、南北朝合一を考える上で重要な問題があります。
明徳の和約。二つの朝廷は何を約束したのか
1392年。
南朝の後亀山天皇と、北朝を支える室町幕府との間で、和睦に向けた合意が成立しました。
明徳の和約と呼ばれています。
和約では、南朝から北朝へ三種の神器を引き渡すことが定められました。
そして、今後の皇位継承についても、重要な条件が設けられます。
それは、南朝の系統である大覚寺統と、北朝の系統である持明院統が、交代で皇位を継承するという考え方でした。
両統迭立と呼ばれるものです。
さらに、それぞれの皇統が持つ所領についても取り決めがなされたとされています。
つまり、南朝側がただ無条件に降伏するという形ではなく、将来に向けた条件を伴う和睦だったのです。
ここで考えたいのは、なぜ皇位を交代で継承するという約束が必要だったのかということです。
南朝を支えてきた人々にとって、皇位の正統性は長年争ってきた重要な問題でした。
一方、北朝側にも、それまで続いてきた皇位継承や政治的な立場があります。
どちらか一方の主張だけを認めれば、もう一方が納得することは難しいでしょう。
そこで、今後は両方の系統が皇位を継承するという方法が考えられたのです。
異なる立場の人々が争いを終わらせるには、双方が受け入れられる条件を探す必要があります。
その意味では、明徳の和約も、一つの答えを探した結果だったのかもしれません。
しかし、約束を交わすことと、それを実際に守り続けることは別の問題です。
そして、その難しさは、合一後の歴史に現れてきます。