北畠顕家とその一族【第12回】
新田義貞との交錯
二人の武将は、なぜ同じ戦場で戦えなかったのか
1338年。
北畠顕家は京都を目指して進軍していました。
一方、新田義貞は北陸方面で足利方と戦っていました。
二人は、ともに後醍醐天皇を支える立場にありました。
また、1336年には足利尊氏に対抗するため、同じ側で戦った経験もありました。
しかし、1338年の軍事行動では、二人が十分に連携することはできませんでした。
なぜでしょうか。
この問いは、新田義貞の歴史を追ってきた中でも、重要な疑問として残るものです。
顕家と義貞が力を合わせていれば、京都を奪還できたのでしょうか。
それとも、当時の交通事情や軍事情勢の中では、連携そのものが難しかったのでしょうか。
今回は、二人の行動を同じ時間軸で追いながら、この問題を考えます。
1336年には同じ側で戦っていた
1336年初め、北畠顕家は奥州から西上しました。
足利尊氏が京都へ進出し、建武政権は危機に直面していました。
顕家は新田義貞や楠木正成らとともに足利方に対抗し、尊氏を九州へ退かせることに貢献しました。
このとき、顕家と義貞は共通の目的を持っていました。
後醍醐天皇の政権を守ることです。
しかし、戦いの後、二人は異なる地域へ向かいます。
顕家は奥州へ戻りました。
義貞はその後も畿内などで戦い、やがて北陸へ移ります。
二人は同じ政治的立場にありながら、それぞれ異なる地域で軍事的な役割を担うことになったのです。
新田義貞が北陸へ向かった理由
1336年、足利尊氏は九州で再起し、再び京都を掌握しました。
後醍醐天皇側は劣勢となります。
この中で義貞は、恒良親王や尊良親王らとともに北陸方面へ向かいました。
越前国の金ヶ崎城などを拠点として、足利方に対抗しようとしたのです。
しかし、1337年3月、金ヶ崎城は落城します。
尊良親王や義貞の子・義顕らが命を落とし、恒良親王も足利方に捕らえられました。
義貞自身は脱出し、越前で抵抗を続けます。
この時点で義貞が置かれた状況は非常に厳しいものでした。
失われた拠点を立て直し、散り散りになった味方を集め、足利方の攻撃を防がなければなりませんでした。
北陸での軍事行動は、京都方面の戦いと深く関わっていましたが、義貞が自由に移動できる状況だったとは限りません。
1337年、顕家は奥州から出発する
一方、奥州では北畠顕家が足利方の圧力に直面していました。
顕家は1337年1月、多賀城から霊山へ拠点を移します。
そして同年8月、第二次西上を開始しました。
この時期、義貞は北陸で足利方と戦っていました。
二人は、いずれも南朝側の軍事力を担う人物でした。
しかし、同じ場所にいたわけではありません。
顕家は奥州から関東へ向かいます。
義貞は北陸で勢力を維持しようとしていました。
その間には、関東、信濃、美濃、越前など、複数の地域が存在していました。
しかも、それぞれの地域には足利方の勢力もありました。
二人が合流するには、単純に移動すればよいという状況ではなかったのです。
1338年初め、二人はどこにいたのか
当時の行動を整理すると、次のようになります。
| 時期 | 北畠顕家 | 新田義貞 |
|---|---|---|
| 1337年3月 | 奥州の霊山を拠点に活動 | 金ヶ崎落城後、越前で抵抗 |
| 1337年8月 | 第二次西上を開始 | 北陸方面で軍勢の再建を進める |
| 1337年12月 | 鎌倉を攻略 | 越前方面で活動 |
| 1338年1月 | 美濃・青野原で足利方と戦う | 北陸で足利方との戦いを継続 |
| 1338年春 | 伊勢・大和・河内方面で戦闘 | 越前方面で軍事行動 |
| 1338年5月 | 石津の戦いで戦死 | 北陸で戦いを続ける |
| 1338年閏7月 | すでに戦死 | 藤島の戦いで戦死 |
この年表から、二人が異なる地域で行動していたことが分かります。
しかし、位置が違うというだけでは、連携が不可能だったと断定することはできません。
問題は、どの時点で、どのような連携を目指すことができたのかという点です。
青野原で合流できた可能性はあったのか
1338年1月、顕家軍は美濃国青野原まで進みました。
一方、義貞は越前国を中心に活動していました。
地図上では、両者の位置は奥州と京都ほど遠くありません。
では、なぜ合流しなかったのでしょうか。
考えられる事情の一つが、足利方の軍勢の存在です。
北陸から美濃方面へ移動するには、敵方が活動する地域を通過する可能性があります。
また、義貞が北陸の拠点を維持するために兵力を必要としていた場合、容易に軍勢を移動できなかったことも考えられます。
一方、顕家軍は長距離遠征の途中であり、青野原での戦いの後には伊勢方面へ向かいました。
両者の軍勢が、同じ時期に自由に動ける状態だったかどうかは明らかではありません。
したがって、距離だけを理由に「合流できたはずだ」と判断することはできません。
情報はどのように伝わったのか
当時の連絡手段は、基本的に使者や書状でした。
顕家が青野原で戦ったという知らせが義貞へ届くまでには、時間がかかります。
義貞の軍事行動に関する情報が顕家へ届く場合も同様です。
また、使者が安全に移動できるとは限りません。
敵方の勢力圏を通過する場合、情報が途中で失われる可能性もありました。
さらに、情報を受け取った時点で、相手の軍勢は別の場所へ移動しているかもしれません。
現在の私たちは、1338年の出来事を同じ地図と年表の上で確認できます。
しかし、当時の人々は、その時点で把握できた情報をもとに判断していました。
この違いは、歴史上の軍事判断を評価するうえで重要です。
後醍醐天皇の戦略は統一されていたのか
顕家と義貞は、ともに後醍醐天皇側の武将でした。
では、後醍醐天皇は二人に対して、どのような軍事的な役割を期待していたのでしょうか。
顕家は奥州から西上し、京都方面の足利勢力を攻撃しようとしていました。
義貞は北陸で抵抗を続け、足利方の軍勢と戦っていました。
複数の方面から足利方に圧力をかけることには、戦略的な意味があります。
しかし、それが具体的にどの程度まで計画された共同作戦だったのかは、別の問題です。
朝廷が各地の武将に命令を出していたとしても、それぞれの戦場の状況を即座に把握し、軍勢の行動を細かく調整することは困難だったでしょう。
南朝側の軍事行動に統一的な構想があったとしても、その実現には大きな制約が存在していたと考えられます。
義貞と顕家の間に対立はあったのか
後世の解釈では、顕家と義貞の間に功績や主導権をめぐる問題があったのではないかと語られることがあります。
また、顕家軍に加わっていた北条時行と新田氏の歴史的な関係を重視する説明もあります。
しかし、こうした説明をそのまま事実とすることはできません。
北条時行は鎌倉幕府の北条氏の生き残りです。
一方、新田義貞は1333年に鎌倉を攻撃し、幕府滅亡に大きく関わりました。
両者の過去を考えると、政治的な関係が単純ではなかったことは確かです。
しかし、そのことだけで、顕家と義貞が合流しなかった理由を説明することはできません。
実際の軍事行動を決めた要因が何だったのかについては、史料に基づいた検討が必要です。
二人が合流していれば歴史は変わったのか
顕家と義貞が合流していれば、足利方に対してより大きな軍事力を集中できた可能性はあります。
しかし、それが京都奪還に直結したとは限りません。
合流した軍勢の兵力がどの程度になったのか。
補給を維持できたのか。
足利方がどのように対応したのか。
指揮系統をどのように整えたのか。
こうした条件によって結果は変わります。
歴史に「もしも」を考えることは、当時の選択肢を理解するための手がかりになります。
しかし、実現しなかった選択肢の結果を、確定した事実のように扱うことはできません。
顕家と義貞の連携についても同じです。
重要なのは、当時の条件の中で何が可能だったのかを考えることです。
同じ年に失われた二人の命
1338年5月22日、北畠顕家は和泉国石津で戦死しました。
その後、閏7月2日には、新田義貞も越前国の藤島の戦いで命を落とします。
わずか数か月の間に、南朝側の重要な武将が二人失われたのです。
二人は異なる地域で戦い、それぞれ異なる状況の中で最期を迎えました。
その結果を知る私たちは、二人がもっと早く合流できていればと考えてしまいます。
しかし、当時の二人には、それぞれ守るべき拠点と担うべき役割がありました。
同じ目的を持ちながら、別々の戦場で戦わなければならなかった人々。
その現実を理解することが、南北朝時代の複雑さを知ることにつながります。
次回は「後醍醐天皇への最後の諫言」。
顕家は戦死の直前、後醍醐天皇に政治改革を求める諫奏文を残したと伝えられています。
自らが命を懸けて支えてきた天皇に、なぜ政治の問題点を指摘したのでしょうか。
その文章から、顕家が目指した政治のあり方を探ります。