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北畠顕家とその一族【第11回】

2015.08.19

青野原の戦いと京都への道

戦いに勝ちながら、なぜ京都を奪還できなかったのか

1338年1月。

北畠顕家の軍勢は、関東からさらに西へ進みました。

前年12月には鎌倉を攻略し、足利方の重要な拠点を一時的に制圧しています。

目指すのは京都でした。

しかし、顕家軍が西へ進むほど、足利方も軍勢を集めて迎撃しようとします。

そして1月下旬、美濃国青野原で大きな戦いが起こりました。

現在の岐阜県大垣市周辺にあたる地域です。

青野原の戦い。

北畠顕家の第二次西上を考えるうえで、重要な転換点となった戦いです。

顕家軍は足利方に大きな打撃を与えたと伝えられています。

しかし、その後、京都へ直接進むことはできませんでした。

なぜでしょうか。

青野原へ至る道

顕家軍は鎌倉を攻略した後、東海道から美濃方面へと進みました。

当時、関東から京都へ向かうには、複数の交通路がありました。

山地を越える道。

平野部を進む道。

大きな河川を渡る地点。

どの経路を選ぶかによって、軍勢の移動や補給の条件は変わります。

顕家軍が美濃国へ進んだことは、京都へ接近する重要な段階でした。

しかし、美濃から近江へ抜ければ、その先は足利方が支配する京都に近づきます。

当然、足利方も進軍を阻止しようとします。

青野原の戦いには、土岐氏や高師泰ら足利方の武士たちが関わりました。

顕家軍は、こうした勢力との戦闘に臨むことになります。

青野原で何が起きたのか

1338年1月28日頃、青野原で顕家軍と足利方の軍勢が激突しました。

戦闘の経過については、軍記物などに記録が残されています。

顕家軍が足利方を破ったとする記述がありますが、戦いの細部や損害の規模については史料による違いもあります。

特に軍勢の人数や戦死者の数については、軍記物の数字をそのまま事実として扱うことはできません。

重要なのは、顕家軍が美濃まで進出し、足利方の迎撃部隊と激しく戦ったということです。

奥州から出発した軍勢が、関東で戦い、鎌倉を攻略し、さらに美濃まで進んでいたのです。

この進軍を支えた武士たちの負担は、相当なものだったと考えられます。

勝利した軍勢が進めないという矛盾

青野原の戦いで顕家軍が優勢だったとすれば、なぜそのまま京都へ進まなかったのでしょうか。

ここには、戦場の勝敗だけでは説明できない問題があります。

まず、京都へ向かう経路には、なお足利方の勢力が存在していました。

一度の戦いで敵軍の一部を破っても、その先の道が安全になるとは限りません。

また、戦いに勝利した軍勢にも損害が生じます。

兵士が負傷し、馬が失われ、物資が消耗することがあります。

勝利した側の軍勢が、必ずしも次の戦いに十分な余力を残しているとは限らないのです。

顕家軍が青野原の後に近江方面へ進まず、伊勢方面へ転じた理由については、複数の解釈があります。

一つの理由だけで説明することはできません。

伊勢へ向かった理由

青野原の戦いの後、顕家軍は伊勢方面へ進みました。

これは、京都への最短経路から外れる動きでした。

では、なぜ伊勢へ向かったのでしょうか。

考えられる理由の一つが、軍勢の状態です。

長距離遠征と連戦によって軍勢が消耗していた場合、強固な足利方の守備を正面から突破することは難しくなります。

また、伊勢には南朝方と関係の深い勢力も存在しました。

北畠一族にとって、伊勢は後に重要な拠点となる地域です。

ただし、1338年当時に顕家がどのような具体的な計画を持って伊勢へ進んだのかを、完全に明らかにすることはできません。

軍勢の再編を目的としたのか。

味方勢力との合流を期待したのか。

別の経路から京都を目指そうとしたのか。

いずれも当時の軍事状況と照らし合わせる必要があります。

京都を目指す道は一つではなかった

美濃から近江へ抜ける経路を進めば、京都へ接近できます。

しかし、その経路が敵の強い支配下にあれば、軍勢は途中で阻止される可能性があります。

一方、伊勢から伊賀や大和を経由する道を選べば、別の方向から京都へ向かうことができます。

ただし、こちらも山地や狭い交通路を通過する必要があります。

大軍の移動に適した道ばかりではありません。

さらに、各地域の武士たちがどちらに属しているかによって、進軍の難しさは変化します。

現在の地図を見れば、京都へ向かう道はいくつも描かれています。

しかし、1338年の顕家軍にとって、すべての道が自由に使えるわけではありませんでした。

この違いを考えることが、青野原の戦いの後の行動を理解する手がかりになります。

大和への進出と敗北

顕家軍は伊勢方面へ進んだ後、大和国へ向かいました。

そして奈良の般若坂周辺で足利方と戦い、敗れたと伝えられています。

この敗北によって、顕家軍は大きく後退することになりました。

鎌倉を攻略し、青野原まで進んできた遠征軍は、京都を目前にして苦しい状況に追い込まれたのです。

ここで注目したいのは、顕家軍の目的が変わったわけではないということです。

あくまでも京都方面の足利勢力に対抗するために進軍していました。

しかし、その目的を実現するための軍事的な条件は、次第に厳しくなっていました。

戦いが長引けば、遠征軍は人員と物資を消耗します。

一方、足利方は京都周辺の拠点を利用して軍勢を集めることができました。

双方の置かれた条件には違いがあったのです。

遠征軍の限界はどこにあったのか

顕家軍は、奥州から鎌倉、美濃、伊勢、大和へと進みました。

その移動距離だけでも、非常に長い遠征でした。

しかし、軍勢を維持するためには距離だけでなく、時間も重要です。

遠征期間が長くなるほど、食料や馬の飼料を確保し続ける必要があります。

負傷者の対応も必要になります。

参加した武士たちの中には、故郷の領地のことを気にかけていた人もいたでしょう。

また、遠征軍の中には政治的な立場の異なる武士たちが加わっていました。

顕家の軍勢が一つの目的に向かって行動していたとしても、その内部まで完全に一致していたとは限りません。

軍勢をまとめること自体が、大きな仕事だったと考えられます。

勝利と成功は同じではない

青野原の戦いは、顕家の軍事的な能力を考えるうえで重要な戦いです。

しかし、戦場で敵に打撃を与えたことと、遠征全体の目的を達成したことは違います。

顕家が目指していたのは、足利方の軍勢を一度破ることだけではありませんでした。

京都方面の政治情勢を変えることでした。

そして、それによって南朝側の立場を立て直すことが求められていました。

青野原の戦いで軍事的な成果を挙げても、京都を奪還できなければ、遠征全体の目的は達成されません。

顕家が直面したのは、まさにその難しさだったのです。

遠く離れた新田義貞の存在

この頃、新田義貞は北陸方面で足利方と戦い続けていました。

顕家は美濃から伊勢、大和方面へ進みます。

両者はともに後醍醐天皇側の武将でした。

しかし、同じ地域で行動していたわけではありません。

もし両者が連携できていれば、京都を奪還する可能性は高まったのでしょうか。

あるいは、そもそも連携するための時間や交通路が確保できなかったのでしょうか。

この問題を考えるには、顕家と義貞の行動を同じ時間軸で整理する必要があります。

単に地図上の距離が近いか遠いかを見るだけでは不十分です。

二人がどの時点で、どこに、どの程度の軍勢を持っていたのか。

そして、朝廷からどのような命令を受けていたのか。

これらを照合しなければ、連携が可能だったかどうかを判断することはできません。

青野原に残された謎

青野原の戦いを振り返ると、一つの疑問が浮かびます。

顕家軍が軍事的な成果を挙げたにもかかわらず、なぜ京都奪還につながらなかったのか。

そこには、戦場の勝敗だけでは説明できない事情が重なっていました。

兵力の消耗。

補給の問題。

敵味方の勢力配置。

交通路の選択。

そして、遠く離れた南朝方の軍勢との関係。

顕家は、こうした条件の中で判断を重ねていました。

結果だけを見れば、京都を奪還できなかった遠征です。

しかし、その過程を追えば、顕家軍がどのような困難に直面していたのかが見えてきます。

次回は「新田義貞との交錯」。

顕家と義貞は、なぜ十分に連携できなかったのでしょうか。

1337年から1338年にかけての二人の行動を照らし合わせ、南朝側の軍事戦略を考えます。

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