仏教伝来の謎|なぜ海を越えてきた新しい信仰が、古代日本の政治とものづくりを変えたのか【3】
4. 蘇我稲目と物部尾輿|新しい仏を受け入れるか、それとも従来の神々を守るか
『日本書紀』によれば、百済から仏像や経典が贈られたとき、欽明天皇は豪族たちに、その扱いについて意見を求めたとされています。
仏教を受け入れることに賛成したのが、蘇我稲目でした。
一方、反対したと記されているのが、物部尾輿や中臣鎌子です。
蘇我稲目は、大臣という地位にあった有力豪族です。
蘇我氏は、後に仏教の受容を進めた氏族として知られるようになります。
一方、物部氏は、軍事や王権の祭祀などに関係した有力氏族でした。
中臣氏も、神々への祭祀に深く関わる氏族として知られています。
では、なぜ意見が分かれたのでしょうか。
『日本書紀』には、従来から日本列島で祀られてきた神々の怒りを招くのではないかという懸念が記されています。
新しい仏を祀ることで、これまでの神々への祭祀が損なわれると考えたのかもしれません。
しかし、この対立を単純に、新しい文化を受け入れる進歩的な蘇我氏と、古い文化に固執する保守的な物部氏という図式で捉えることには注意が必要です。
物部氏が外来文化や技術をすべて拒んでいたわけではありません。
軍事や武器、馬具などに関係する氏族であれば、朝鮮半島から伝わった技術や製品とも無関係ではなかったと考えられます。
また、蘇我氏が仏教を受け入れた理由も、純粋に信仰心だけだったとは限りません。
仏教を通じて百済などとの関係を深め、新しい知識や技術を取り入れることには、政治的な意味もあった可能性があります。
つまり、両者の対立は、宗教的な考え方の違いだけでなく、王権の祭祀や政治的な力関係をめぐる問題とも関係していたのかもしれません。
ただし、実際にどのような議論が行われたのか、誰が何を考えていたのかを正確に再現することはできません。
『日本書紀』に描かれた発言も、当時の会議の記録がそのまま残されたものとは限らないからです。
それでも、新しい信仰を受け入れることが、王権と豪族たちにとって重要な政治的問題だったことは考えられます。
5. 疫病は仏のせいだったのか|信仰をめぐる人々の不安
『日本書紀』には、仏教の受容をめぐる争いの背景として、疫病の流行が記されています。
蘇我稲目が仏像を祀った後、疫病が広がり、物部氏や中臣氏が、その原因を異国の仏を祀ったことに求めたとされています。
そして、仏像を捨て、仏教の施設を焼いたという趣旨の記述が残されています。
現在の私たちは、感染症が病原体などによって広がることを知っています。
しかし、古代の人々は、疫病や災害を神々の怒りや祟りと結びつけて考えることがありました。
新しい信仰を受け入れた後に疫病が流行したとすれば、そこに原因を求める人々がいた可能性はあります。
一方で、仏教を信仰する人々は、仏に祈ることで病気や災いから救われると考えたかもしれません。
同じ疫病という出来事を前にしても、異なる信仰を持つ人々が、まったく違う意味を見いだしていた可能性があります。
ただし、ここでも『日本書紀』の記述をそのまま史実として扱うことには注意が必要です。
仏教に反対したために災いが起きた、あるいは仏教を受け入れたために災いが起きたという物語は、後の時代に宗教的な意味づけが加えられた可能性もあります。
重要なのは、当時の人々にとって、信仰が個人の心の問題だけではなかったことです。
神々への祭祀は、農業の豊作や地域社会の安定、王権の正統性とも結びついていたと考えられます。
そのため、新しい仏を祀ることは、従来の社会的な秩序を変える問題として受け止められた可能性があります。
では、仏教を受け入れることによって、本当にそれまでの神々を捨てる必要があったのでしょうか。
後の日本では、神と仏を結びつけて考える神仏習合が発展していきます。
しかし、仏教が伝わった当初から、そのような関係が確立していたわけではありません。
異なる信仰をどのように受け入れ、社会の中に位置づけるのか。
それは、長い時間をかけて考えられていく問題だったのでしょう。
6. 蘇我馬子と物部守屋|対立はなぜ武力衝突へ発展したのか
蘇我稲目と物部尾輿の時代に始まったとされる仏教受容をめぐる対立は、次の世代にも引き継がれていきました。
蘇我氏では、稲目の子である蘇我馬子が有力な立場を占めるようになります。
物部氏では、物部守屋が大連として王権の政治に深く関わりました。
そして587年、両者の対立は武力衝突へと発展します。
一般に「丁未の乱」と呼ばれる出来事です。
『日本書紀』によれば、用明天皇の死後、王位継承をめぐる問題が起き、蘇我馬子と物部守屋の対立が激しくなりました。
物部守屋は穴穂部皇子と関係を持っていたとされ、蘇我馬子は別の皇位継承候補を支持する勢力と結びついていたと考えられています。
さらに、後に推古天皇となる額田部皇女や、厩戸皇子らも、この時代の政治に関わっていたと記されています。
『日本書紀』では、蘇我馬子側が軍を率いて物部守屋を攻撃し、守屋が戦死したとされています。
この戦いにより、王権において大きな影響力を持っていた物部守屋の勢力は敗れました。
物部守屋が亡くなったのは587年です。
では、この戦いは本当に仏教を信じるかどうかだけを理由に起きたのでしょうか。
もし宗教的な問題だけだったのであれば、なぜ王位継承をめぐる政治的な対立と結びついたのでしょうか。
ここから考えられるのは、仏教の受容をめぐる問題と、豪族たちの政治的な利害が重なり合っていた可能性です。
新しい王を誰にするのか。
王権の中で、どの豪族が主導的な立場を占めるのか。
百済などとの外交関係を、誰が中心となって進めるのか。
そして、仏教という新しい信仰を、王権の中でどのように扱うのか。
これらは、互いに関係する問題だったのかもしれません。
また、仏教に賛成する側と反対する側が、それぞれ完全に一つの政治的な集団としてまとまっていたとも限りません。
豪族ごとに異なる思惑があり、王族との関係や地域の利害によって、政治的な立場が変化した可能性もあります。
そのため、587年の戦いを、単純に仏教を信じる人々と、信じない人々の戦争として説明することはできません。
宗教的な問題を含みながら、王位継承や豪族間の権力関係が関わった政治的な衝突だったと考える必要があります。
そして、この戦いの後、蘇我馬子は王権の政治において、さらに大きな影響力を持つようになります。
その蘇我馬子が取り組んだ大規模な事業が、飛鳥寺の建立でした。