仏教伝来の謎|なぜ海を越えてきた新しい信仰が、古代日本の政治とものづくりを変えたのか【4】
7. 飛鳥寺の建立|なぜ新しい信仰のために巨大な建築物が必要だったのか
奈良県明日香村に、飛鳥寺という寺院があります。
現在も飛鳥大仏を本尊として祀る、日本の仏教史において重要な寺院です。
しかし、現在の飛鳥寺の姿と、創建当初の飛鳥寺の姿は大きく異なっています。
創建当初の飛鳥寺は、現在の境内よりもはるかに広い規模を持つ、本格的な仏教寺院でした。
『日本書紀』によれば、588年、蘇我馬子によって造営が始められたとされています。
そして596年に完成したと記録されています。
この飛鳥寺は、法興寺とも呼ばれ、後の元興寺につながる寺院です。
では、なぜ仏教を信仰するために、これほど大きな建築物が必要だったのでしょうか。
もちろん、仏教を信じること自体に、必ずしも巨大な寺院が必要だったわけではありません。
しかし、仏像を安置し、僧侶が活動し、仏教の儀礼を行うためには、それに適した施設が必要になります。
また、当時の中国大陸や朝鮮半島では、仏教寺院が王権や有力者の権威を示す重要な建造物にもなっていました。
そのため、蘇我馬子が本格的な寺院を建立することには、信仰上の意味だけでなく、政治的な意味もあった可能性があります。
飛鳥寺の造営は、従来の古墳築造とは異なる新しい技術を必要としました。
巨大な古墳は、土を積み、石を運び、埋葬施設を造ることによって完成します。
一方、寺院では、建物を長期間使用し、内部に人々が入り、仏像を安置し、儀礼を行います。
高い屋根を支え、大きな内部空間を確保し、風雨から建物を守る必要があります。
しかも、飛鳥寺は一つの建物だけで完成するものではありませんでした。
発掘調査では、中心の塔と、その北・東・西に置かれた三つの金堂からなる「一塔三金堂」の伽藍配置が確認されています。
建物を回廊で囲み、全体として一つの寺院を構成する大規模な計画でした。
そこには、建物ごとの施工技術だけでなく、敷地全体の配置を考える設計が必要だったはずです。
地盤を整え、基壇を築き、柱を配置し、建物の高さや大きさを調整する。
そして、複数の建物が一つの空間として機能するように、全体を計画する。
飛鳥寺は、古代日本列島における新しい建築技術の集積地だったと考えられます。
8. 百済から来た技術者たち|寺工・瓦博士・鑪盤博士とは何者だったのか
飛鳥寺の建立を考えるとき、特に注目したい記録があります。
『日本書紀』の588年の記事です。
そこには、百済から仏舎利や僧侶とともに、寺院建築や製作に関わる技術者が渡ってきたことが記されています。
具体的には、寺工、瓦博士、鑪盤博士、画工などです。
寺工は、寺院の建築に関わる技術者と考えられています。
瓦博士は、瓦の製作に関係する専門的な知識を持つ人物です。
鑪盤博士は、仏塔の上部に設けられる相輪など、金属製の部材に関係する技術者と解釈されています。
画工は、建物や仏教に関係する絵画・装飾を担当した人物と考えられます。
これらの専門職が記録されていることは、非常に興味深いことです。
単に建物を作るための労働者が派遣されたのではなく、異なる分野の技術を持つ人々が渡ってきたと記されているからです。
『日本書紀』には、寺工の太良未太や文賈古子、鑪盤博士の将徳白昧淳、瓦博士の麻奈文奴らの名前が残されています。
また、瓦博士という名称については、実際に瓦を製作するだけでなく、現地の職人へ製作方法を教えたり、工程を管理したりする役割を持っていた可能性も研究されています。
では、百済から来た技術者たちは、日本列島の人々に何を伝えたのでしょうか。
完成した寺院の形を説明するだけでは、建物は完成しません。
設計を理解し、材料を調達し、必要な部材を製作し、それらを現場で組み合わせる必要があります。
例えば、瓦の製作では、適切な粘土を選び、成形し、乾燥させ、焼成する工程が必要です。
寺院建築では、柱や梁の位置を決め、荷重を支える構造を作らなければなりません。
金属製の装飾では、材料を加工し、必要な形に仕上げ、建物に取り付ける必要があります。
これらは、いずれも具体的な作業と経験によって成り立つ技術です。
仮に百済から来た技術者が高度な知識を持っていたとしても、日本列島の材料や気候、既存の道具が異なれば、現地の条件に合わせた工夫も必要だったでしょう。
さらに、大規模な寺院を完成させるには、現地の職人たちとの協力が欠かせません。
木材を加工する人々。
土を扱う人々。
鉄製の道具を作る人々。
石を加工する人々。
そして、新しく伝わった技術を学び、実際の製作に応用していく人々。
そのような共同作業があって、初めて飛鳥寺のような巨大な寺院が完成したのではないでしょうか。
新しい技術が伝わるということは、知識を持つ人がやって来るだけではなく、その技術を現地で使えるようにしていく過程でもあるのです。