渡嶋はどこにあったのか――古代の記録に現れた北の島と、消えた地名の謎
――北海道だったのか、津軽だったのか。日本海を渡った人々が残した地理の手がかり
西暦658年。
日本海を北上した阿倍比羅夫の船団は、秋田や能代方面の人々と接触した後、ある海岸へ向かったと記録されています。
その場所の名は、有間浜(ありまのはま)。
『日本書紀』によれば、阿倍比羅夫はここに渡嶋(わたりしま)の蝦夷と呼ばれる人々を集め、盛大にもてなしました。
ところが、この記録には不思議なことがあります。
渡嶋とは、一体どこだったのでしょうか。
現在の北海道には渡島半島という地名があります。
そのため、古代の渡嶋も北海道を指していたと考えたくなります。
しかし、問題はそれほど単純ではありません。
渡嶋を北海道南部と考える説がある一方で、津軽半島や下北半島など、本州北部に関係する地名だったとする見方もあります。
さらに、時代によって指し示す地域が変化した可能性も指摘されています。
同じ名前が歴史書に残っているのに、その場所を現在の地図で確定できないのです。
なぜ、そのようなことが起きるのでしょうか。
今回の歴史探訪では、『日本書紀』の記録と、日本海沿岸の地理、古代の交通路を手がかりに、渡嶋の謎を追いかけます。
「島」と書かれていても、島とは限らない
最初に考えたいのは、渡嶋という名前そのものです。
現代の私たちは、「島」と書かれていれば、周囲を海に囲まれた土地を想像します。
しかし、古代の地名を現代の言葉の意
味だけで判断することはできません。
昔の人々が、どのような地理的な認識を持っていたのかを考える必要があります。
例えば、半島のように海へ突き出した土地も、海から近づく人々にとっては島のように見えることがあります。
また、ある地域へ行くために海を渡らなければならない場合、その土地を海の向こう側の地域として捉えることもあるでしょう。
渡嶋という名称についても、単純に現在の島の形だけで判断するのは難しいのです。
さらに重要なのが、誰がその名前を使っていたのかという問題です。
渡嶋とは、そこに暮らす人々自身が使っていた地名だったのでしょうか。
それとも、朝廷側が北方の地域を区別するために用いた呼び名だったのでしょうか。
その点も、十分には分かっていません。
地名は土地の位置だけでなく、その土地をどこから見ていたのかという視点も反映することがあります。
658年、有間浜に集められた人々
では、『日本書紀』の記録を詳しく見てみましょう。
658年、阿倍比羅夫の船団は齶田と渟代の人々と接触しました。
齶田は秋田方面、渟代は能代方面と考えられています。
その後、阿倍比羅夫は有間浜で渡嶋の蝦夷を集め、饗応したと記されています。
ここで注目したいのは、渡嶋の人々が、秋田や能代の人々とは区別されていることです。
では、彼らはどこから集まってきたのでしょうか。
北海道から船で渡ってきたのでしょうか。
それとも、津軽や下北のような、本州北部の地域から移動してきたのでしょうか。
残念ながら、この記録だけでは答えを決められません。
有間浜の場所そのものが確定していないからです。
もし有間浜が津軽半島の日本海側にあったなら、北海道から渡ってくる船を迎える場所として考えることもできます。
一方、渡嶋が津軽半島の一部や、その周辺地域を指していたなら、必ずしも北海道から人々が来たとは限りません。
つまり、一つの地名をどこに置くかによって、遠征の航路そのものが変わってしまうのです。
北海道説――津軽海峡の向こうにあった土地
渡嶋の所在地として、よく知られているのが北海道説です。
この見方では、渡嶋は北海道南部、特に現在の渡島半島付近に関係する地域だったと考えます。
津軽半島や下北半島から北海道南部までは、津軽海峡を隔てた位置にあります。
海を渡れば到達できる距離です。
また、北海道と本州の間には、阿倍比羅夫の遠征よりもはるか以前から交流が存在していました。
縄文時代には、海峡を越えて石材や文化的な要素が移動していました。
古代にも、本州と北海道の人々は物資や技術を交換していました。
そのため、7世紀の渡嶋の人々が北海道に暮らしていたとしても、地理的には不自然ではありません。
さらに、『日本書紀』には後方羊蹄(しりべし)という地名も登場します。
現在の北海道にも後志という地域名があります。
これらを結びつけ、阿倍比羅夫の遠征が北海道にまで達したと考える説があります。
しかし、注意すべきことがあります。
現在の渡島や後志という地名が存在することだけで、7世紀の所在地が証明されるわけではありません。
古代の名称が後の時代に別の土地へ用いられた可能性や、後世の地名の成立事情も調べる必要があります。
現在の地図に同じ名前があることは手がかりになりますが、それだけで古代の地理が確定するわけではないのです。
津軽・下北説――渡嶋は本州側だったのか
一方、渡嶋を現在の青森県域に求める説もあります。
候補となるのは、津軽半島や下北半島などです。
この見方で重要になるのが、『日本書紀』に記された遠征の順序です。
阿倍比羅夫の船団は、秋田方面から能代、津軽方面へと北上したと考えられています。
その流れの中で、有間浜や渡嶋という名前が登場します。
もし渡嶋が本州北端の地域を指していたなら、遠征の記録を津軽周辺の地理の中で説明できる可能性があります。
また、津軽半島や下北半島は、三方を海に囲まれた地域です。
海上交通を中心に考えれば、周囲の土地とは異なる地理的なまとまりとして認識された可能性もあるでしょう。
ただし、これらは所在地を考えるための仮説です。
渡嶋が必ず津軽や下北だったと示す決定的な証拠が見つかっているわけではありません。
ここで注目したいのは、北海道説と本州北部説が、どちらも古代の海上交通を重視していることです。
両者の違いは、当時の人々がどこまでを一つの地域として認識し、どこからを別の土地としていたのかという問題でもあります。
659年、さらに北へ向かった船団
翌659年の記録には、渡嶋の所在地を考えるうえで重要な地名が登場します。
胆振鉏(いぶりさへ)。
肉入籠(ししりこ)。
後方羊蹄(しりべし)。
阿倍比羅夫は、各地の人々を集めて饗応し、その後、肉入籠へ進んだと記されています。
そこで問菟(という地域名で記された人々)の有力者たちが、後方羊蹄に政所を設けることを提案しました。
阿倍比羅夫は、その進言に従って郡領を置いたとされています。
この記録には、興味深い点があります。
朝廷側が一方的に場所を決めたのではなく、現地の人々の提案を受けて拠点を設けたという形で記されているのです。
では、後方羊蹄はどこだったのでしょうか。
現在の北海道後志地方に求める説があります。
一方で、津軽地方の十三湖周辺や深浦、青森市周辺に求める説もあります。
ここでも、所在地は確定していません。
ただし、遠征先の政治的な拠点を考えるうえで、現地の人々の知識が必要とされていた可能性は注目できます。
どこが交通の要所で、どこに人々が集まり、どこなら物資を運べるのか。そうした事情は、その土地で暮らす人々がよく知っていたはずです。
660年、大河の近くに集まった千人
さらに翌660年。
阿倍臣は、北方の粛慎と呼ばれる人々との戦いに関わったと記されています。
その際、渡嶋の蝦夷が千人余り集まっていたという記述があります。
ここで重要になるのが、大河の存在です。
記録では、阿倍臣が大きな川の近くへ進んだとされています。
では、その川はどこだったのでしょうか。
もし渡嶋が北海道にあったなら、北海道の大きな河川を候補として考えることができます。
一方、本州北部説では、津軽平野を流れる岩木川などが検討対象になります。
この違いは非常に大きなものです。
川の位置が変われば、船団が進んだ航路も変わります。
戦いが起きた場所も変わります。
さらに、渡嶋の人々が生活していた範囲についての理解も変わります。
しかし、『日本書紀』には、現在の河川名に結びつけられるだけの詳しい位置情報が残されていません。
そのため、地名の類似や航海の距離だけで結論を出すことは難しいのです。
なぜ、大河の近くに人々が集まったのか
ここで、少し視点を変えてみましょう。
大河がどこだったのかという問題とは別に、なぜ人々が川の近くに集まったのかを考えてみます。
川は、古代の人々にとって重要な交通路でした。
海から川を遡れば、内陸の集落へ向かうことができます。
山間部で採れた資源を、川を利用して海岸へ運ぶこともできたでしょう。
川の河口付近には、海上交通と内陸交通が接続する場所が生まれます。
そこには、人々が集まる理由があります。
交易です。
船を修理するためです。
食料や水を得るためです。
別の地域へ向かうためです。
古代の大河の河口が、こうした機能を持っていた可能性は十分に考えられます。
そして、異なる地域から人々が集まれば、交易だけでなく交渉や対立が生まれることもあるでしょう。
渡嶋の人々と粛慎の人々の対立も、こうした海と川の交通網の中で起きた出来事だったのかもしれません。
ただし、660年の争いの具体的な原因については、史料から確定することはできません。
ここでは、位置の謎だけでなく、その場所に人々が集まる理由が何だったのかという問題も重要になってきます。
696年、「越の度嶋」という記録
渡嶋の謎を考えるうえで、見逃せない記録があります。
『日本書紀』持統天皇10年、696年の記事です。
そこには「越の度嶋の蝦夷」と、粛慎の人物に品物を与えた記録が登場します。
ここで注目したいのは、「越」という名称が使われていることです。
渡嶋が、越と何らかの関係を持つ地域として記録されているのです。
では、これは何を意味するのでしょうか。
渡嶋が越の行政的な支配の中に入っていたのでしょうか。
それとも、越を通じて朝廷と関係を持っていた北方の人々だったのでしょうか。
あるいは、北方の広い地域を越との関係から表現していたのでしょうか。
この短い記録だけで、一つの結論を出すことはできません。
しかし、越と渡嶋が歴史書の中で結びつけられていたことは重要です。
阿倍比羅夫の北方遠征を考える際にも、越を通じた交通や政治的な関係を無視できないからです。
渡嶋の所在地が確定しなくても、越と北方世界が結びついていたことを考える手がかりは残されているのです。
地名は、政治によって動くことがある
ここまで調べてきて、もう一つ考えたいことがあります。
地名とは、常に同じ場所を示し続けるものなのでしょうか。
必ずしも、そうではありません。
政治的な支配の範囲が変わると、地域の名称が変化することがあります。
ある地名が、より広い地域を指すようになる場合もあります。
反対に、以前は広い範囲を示していた名前が、後の時代には限られた地域の名称として残ることもあります。
渡嶋についても、古代の史料を研究する中で、その認識が時代によって変化した可能性が指摘されています。
これは非常に重要です。
もし、658年の渡嶋と、後の時代の渡嶋が必ずしも同じ範囲を示していなかったとすれば、すべての記録を一つの現在地に結びつけようとしても、矛盾が生じるかもしれません。
また、歴史書が編纂された時代の地理認識が、古い出来事の記述に影響している可能性も考える必要があります。
一つの地名を見つけたら、その名前がいつ、誰によって、どの範囲に使われていたのかを確かめることが大切なのです。
当時の人々は、現在の国境を知らなかった
ここで、現代の地図をいったん離れて考えてみましょう。
現在、北海道と青森県は津軽海峡によって隔てられています。
行政上も、それぞれ別の都道県に属しています。
しかし、7世紀の人々が、そのような区分で土地を理解していたわけではありません。
津軽海峡を渡れば、別の地域の人々と出会います。
しかし、そこに暮らす人々との交流が続いていれば、海峡は絶対的な境界ではなかったでしょう。
海を渡る人々にとって、重要なのは行政上の区切りよりも、航海の距離や海の状態、寄港できる場所だったかもしれません。
どこから船を出すか。
どこに着くか。
どの季節なら安全に移動できるか。
誰と交易できるか。
こうした知識が、実際の生活を支えていたはずです。
渡嶋という地名を考えるときにも、現代の行政区画をそのまま古代に当てはめることには注意が必要です。
海を渡る人々は、自分たちの世界をどう見ていたのか
もう一つ、気になることがあります。
渡嶋という名前が、朝廷側から見た呼び名だったとすれば、そこに暮らしていた人々は、自分たちの土地を何と呼んでいたのでしょうか。
これは、簡単には答えられない問題です。
古代の北方社会については、そこに暮らした人々自身の言葉による文字記録が、ほとんど残っていません。
しかし、地名が分からないからといって、人々が土地を区別していなかったわけではありません。
山や川。
海岸や入り江。
漁場や狩猟の場所。
集落と集落を結ぶ道。
暮らしの中では、それぞれの場所を識別するための名前や知識が必要だったはずです。
そして、その知識は地域の人々の間で受け継がれていたでしょう。
朝廷が記録した渡嶋という名称の向こうには、別の地理認識を持つ人々が存在していた可能性があります。
この問題は、前回取り上げた粛慎の名称とも共通しています。
歴史書に残された名前と、その土地で暮らした人々の実際の世界が、必ずしも一致するわけではないのです。
考古学は、渡嶋の場所を教えてくれるのか
では、考古学から渡嶋の所在地を明らかにすることはできるのでしょうか。
北海道と本州北部には、古代の交流を示す多くの遺跡があります。
北海道の続縄文文化や擦文文化に関係する遺跡。
東北地方の古代集落。
海を越えて移動したと考えられる品々。
こうした資料を比較すれば、どの地域とどの地域が交流していたのかを考えることができます。
例えば、北海道で本州に由来する品物が見つかれば、両地域の間に物資の移動があったことを示す手がかりになります。
また、本州北部で北海道に関係する文化的な要素が確認されれば、逆方向の交流も考えることができます。
しかし、ここで難しい問題があります。
交易によって品物が移動しても、そこに暮らす人々の地名まで分かるわけではありません。
また、ある文化の遺跡が発見されたからといって、その場所が歴史書に登場する渡嶋だったとは限りません。
地名を確定するには、文献、考古学、地形、交通路など、複数の手がかりを組み合わせる必要があります。
品物が動いたことは確認できても、その品物を運んだ人々が何と呼ばれていたのかまでは分からないことがあるのです。
越から北へ続く海の道
ここで、今回の歴史探訪の出発点である越へ戻りましょう。
古代の越は、日本海沿岸の広い地域に関係していました。
そこから北へ向かえば、出羽、津軽、さらに北海道方面へとつながっていきます。
ただし、この経路を一隻の船がすべて航海していたとは限りません。
途中の港で荷物を積み替えたり、別の船に引き継いだりした可能性もあります。
また、海岸沿いの移動と、川を利用した内陸への移動が組み合わされていたかもしれません。
こうした交通網が存在していたなら、遠方の人々が直接出会わなくても、品物が広い範囲を移動することは可能です。
そして、海の道を知る人々は、それぞれの地域を結びつける重要な役割を担っていたでしょう。
阿倍比羅夫の船団も、こうした既存の航海知識や交通の仕組みを利用した可能性があります。
しかし、遠征に関わった具体的な船乗りや、利用したすべての寄港地が記録されているわけではありません。
だからこそ、渡嶋の位置を調べることは、単なる地名探しではないのです。
古代の越から北方へ、どのような人々が、どのような道を使って移動していたのかを考える問題でもあるのです。
渡嶋の場所が分からなくても、見えてくるもの
ここまで、北海道説と本州北部説を見てきました。
どちらにも、それぞれの根拠があります。
しかし、渡嶋の正確な所在地については、現在も確定した結論が得られていません。
では、場所が分からなければ、この歴史を考える意味はないのでしょうか。
そんなことはありません。
『日本書紀』には、渡嶋の人々が朝廷の船団と接触したことが記されています。
また、北方の人々同士の関係や対立も描かれています。
そして、越と渡嶋が結びつけられた記録も残されています。
これらは、古代の日本海沿岸に広い交流世界が存在していたことを考える重要な手がかりです。
ただし、その交流の具体的な範囲や、政治的な支配の実態については、さらに慎重な検討が必要です。
朝廷が渡嶋の人々を饗応したからといって、その土地を完全に支配していたと考えることはできません。
また、渡嶋の人々が朝廷と関係を持ったからといって、それまでの独自の交流が失われたとも限りません。
そこには、政治的な関係と、人々の日常の交流という、異なる二つの歴史が重なっているのです。
地図から消えたのか、それとも名前が変わったのか
最後に、最初の疑問へ戻りましょう。
渡嶋とは、どこだったのでしょうか。
北海道南部だったのか。
津軽や下北だったのか。
あるいは、時代によって異なる地域を指していたのか。
まだ、確かな答えは出ていません。
しかし、一つ考えたいことがあります。
渡嶋という名前が、古代の記録の中で使われなくなっていったとしても、そこに暮らしていた人々が突然消えたわけではありません。
人々は、その後も暮らしを続けていたでしょう。
海を渡り、川を利用し、周辺の地域と交流していたはずです。
政治的な支配の形が変われば、地名も変わることがあります。
歴史書に登場する集団の呼び名も変わります。
しかし、名前が変わっても、人々の生活や交流が完全に断ち切られるとは限りません。
むしろ、その後の時代に、別の名前で記録されるようになった可能性もあります。
歴史書から一つの地名が消えたことと、その土地の人々の歴史が終わったことは、同じではないのです。
渡嶋の謎は、古代の地理を調べる問題であると同時に、歴史に残された名前と、実際に暮らしていた人々との関係を考える問題でもあります。
そして、この謎を追いかけることで、越から東北、北海道へと続く日本海の交流が、現在の地図だけでは捉えきれない広がりを持っていたことが見えてきます。
次の歴史探訪では、さらに視点を海の向こうへ広げます。
日本海の対岸には、かつて渤海という国が存在していました。
その国から、日本列島へ多くの使節がやって来ました。
なぜ彼らは、危険を伴う日本海を渡ったのでしょうか。
そして、なぜその船は、越の海岸にも到着したのでしょうか。
古代の越は、北方世界だけでなく、日本海の対岸に広がる国際交流の入口でもあったのです。