古代のクニとは何だったのか
――数十人のムラが、数百キロ先の人々とつながっていた謎
約5,000年前の日本列島。
ある集落に、遠く離れた土地から見慣れない石が運ばれてきました。
美しい緑色をした石です。
その石を手にした人々は、どんな思いで眺めたのでしょうか。
不思議なのは、その石が何百キロも離れた土地で採れたものだったことです。
現代のような道路も鉄道もありません。自動車もありません。
それでも石は、山を越え、川を下り、海を渡って届けられていました。
いったい誰が、何のために、そんな遠くまで運んでいたのでしょうか。
この疑問を追いかけると、古代の「クニ」の姿が少しずつ見えてきます。
クニに国境はあったのか
現代の私たちは「国」と聞くと、国境があり、政府があり、法律があり、領土を管理する国家を思い浮かべます。
しかし、縄文時代の人々が暮らしていた社会に、現代と同じ仕組みを当てはめることはできません。
数十人ほどの小さな集落もあれば、長期間にわたって発展した大きな集落もありました。
人々は、それぞれの土地で食料を得て、道具をつくり、家族や仲間と暮らしていました。
山の集落では、山の資源を利用する。
海辺の集落では、漁労や海上交通に関わる。
河川沿いでは、水や周辺の植物資源を生かす。
地域ごとに自然環境が違えば、暮らしの中で得られるものも違います。
だからこそ、ほかの集落の人々と物を交換することは、特別な外交ではなく、暮らしの一部だったのでしょう。
ここで、もう一つ考えてみたいことがあります。
当時の人々は、本当に自分たちの集落だけで生活を完結させようとしていたのでしょうか。
実際の遺跡を見ると、まったく違う世界が浮かび上がります。
600キロ離れた土地から届いた石
青森県の三内丸山遺跡。
縄文時代の大規模な集落として知られるこの遺跡から、新潟県糸魚川周辺で採れる翡翠が出土しています。
その距離は約600キロ。
しかも、発見されているのは完成した装飾品だけではありません。
原石や加工途中のものまで運ばれていました。
これは重要なことです。
完成品を交換していただけでなく、石材を運び、別の土地で加工する活動もあったことを示しているからです。
さらに、三内丸山遺跡からは、北海道や東北、中部地方など、異なる産地の黒曜石も見つかっています。
石の特徴を調べれば、どこで採れたものなのかを推定できます。
文字の記録が残っていなくても、石そのものが人々の交流を語っているのです。
そして、ここからさらに驚くことが分かります。
遠い土地の石が、沖縄にも届いていた
新潟県糸魚川周辺の翡翠は、北日本だけでなく、西日本にも広がっていました。
沖縄県の縄文時代に相当する遺跡からも、糸魚川産の翡翠が確認されています。
本州の日本海側で採れた石が、はるか南の島々まで届いていたのです。
もちろん、一人の船乗りが糸魚川から沖縄まで直行したとは限りません。
途中の集落で交換され、別の人へ渡され、さらに遠くまで運ばれたことも考えられます。
しかし、それなら別の疑問が生まれます。
遠く離れた集落同士が、どうして長く交流を続けられたのでしょうか。
単に物が欲しいだけなら、一度の交換で終わることもあります。
けれども、必要な道具や材料を継続して手に入れるには、相手との信頼関係が欠かせません。
毎年のように交流する人々がいたかもしれません。
親から子へと引き継がれる取引相手がいたかもしれません。
そして、離れた集落同士で婚姻が行われれば、交流相手は親族にもなります。
そうした関係が何世代も続くことで、地域を越えた人々のつながりが形づくられていったのでしょう。
交流網は、暮らしを守る仕組みでもあった
日常的に助け合っていた人々にとって、集落の外に知り合いや親族がいることには、大きな意味があったはずです。
食料が不足したとき。
洪水や土砂災害で住まいを失ったとき。
あるいは、ほかの集団との争いによって、その土地で暮らすことが危険になったとき。
頼れる相手が遠くにいれば、移住という選択ができます。
しかも、移住する側は、何も持たない人々ではありません。
狩猟や漁労の知識、木工、石器づくり、土器づくり、航海の経験など、暮らしの中で磨いた技術を持っています。
受け入れる側にとっても、新しい仲間が増え、技術や知識を共有できる利点があります。
そう考えると、集落間の交流は、単に物を交換するためだけのものではなかったのかもしれません。
日常の交流が、いざというときには互いの命を守るつながりになる。
そんな社会の姿が浮かんできます。
そして、越という地域へ
ここで、最初の翡翠の話に戻ります。
糸魚川は、後に越と呼ばれる広大な地域の一部に位置しています。
そこから運ばれた翡翠は、何百キロも離れた北日本へ、さらに遠い西日本へと広がりました。
注目したいのは、翡翠の価値だけではありません。
それを採掘し、加工し、運び、遠方の人々との交流を続けていた社会の存在です。
越と呼ばれた地域には、海があり、山があり、河川があり、豊かな自然資源がありました。
日本海を通れば、山陰方面にも、東北方面にもつながります。
内陸の道をたどれば、信濃や関東にも向かうことができます。
では、そうした交通の結節点に暮らしていた人々は、どのような社会を築いていたのでしょうか。
越は、一人の王が広大な土地を支配する巨大国家だったのでしょうか。
それとも、独自の暮らしを営む多くの集落や地域勢力が、長い交流によって結びついていたのでしょうか。
さらに気になることがあります。
後の歴史には、争いに敗れた人々が北へ向かったという伝承が各地に残っています。
彼らが目指した先に、以前から交流していた人々がいたとしたら。
そして、その交流の中心に越があったとしたら。
私たちが知っている日本の古代史は、まったく違う姿を見せ始めるかもしれません。
小さな緑色の石が、遠い土地へ運ばれていたという事実。
その向こうには、まだ名前さえ分からない多くの人々の歴史があります。
次回は、人々が歩き、船を漕ぎ、命を懸けて渡ってきた古代の交通路を追いかけます。
なぜ、日本海は遠い地域を結びつける大きな道になったのか。
その答えを探す旅から、越の謎がさらに深まっていきます。