北条時行とその一族【第12回】
足利兄弟の争いと、再び鎌倉を奪う時行
父の仇同士が手を結んだ1352年。三度目の鎌倉奪還に隠された謎
1352年、閏2月。
鎌倉をめぐる歴史が、再び大きく動き始めました。
足利尊氏が築いた室町幕府は、内部で激しい対立を起こしていました。
尊氏と弟・足利直義。
かつて協力して鎌倉幕府を倒し、新しい武家政権を築いた兄弟が、互いに軍勢を率いて戦うようになっていたのです。
そして、その争いが続く中で、一人の人物が再び歴史の表舞台に姿を現しました。
北条時行。
鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の息子です。
1333年、鎌倉幕府の滅亡から生き延びました。
1335年、中先代の乱で鎌倉を奪還しました。
1337年には後醍醐天皇の南朝に加わり、北畠顕家とともに足利尊氏に対抗しました。
1340年には、信濃の大徳王寺城で再び挙兵したと伝えられています。
そして1352年。
時行は再び鎌倉を目指します。
ところが、今度の協力者は、かつての敵だった新田氏でした。
新田義興と新田義宗。
1333年に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の息子たちです。
父の幕府を滅ぼした一族と、滅ぼされた一族。
その子供たちが、同じ側に立って足利尊氏と戦おうとしていたのです。
なぜ、このようなことが起きたのでしょうか。
そして、足利兄弟の争いは、北条時行に何をもたらしたのでしょうか。
かつて協力していた足利兄弟
足利尊氏と直義は、鎌倉幕府の滅亡に大きく関わった兄弟でした。
1333年、尊氏は京都の六波羅探題を攻撃し、幕府を倒す側に立ちます。
建武政権の成立後、直義は鎌倉で東国の政治を担いました。
しかし1335年、中先代の乱が起こります。
北条時行の軍勢が鎌倉へ進み、直義は敗北して退却しました。
その危機を救ったのが、京都から東下した尊氏でした。
尊氏は時行軍を破り、鎌倉を奪還します。
このとき、兄弟は同じ目的に向かって行動していました。
しかし、その後、後醍醐天皇と対立した尊氏は新たな武家政権を築きます。
1338年、尊氏は征夷大将軍に任じられました。
幕府の軍事的な中心には尊氏がいました。
一方、政務の中心を担ったのが直義でした。
ここに、室町幕府初期の特徴があります。
幕府の重要な権限が、兄弟の間で分担されていたのです。
尊氏と直義は、何をめぐって対立したのか
室町幕府の初期には、尊氏と直義の間で政治的な役割が分かれていました。
尊氏は、軍功に対する恩賞や武士たちとの主従関係に関わる権限を持っていました。
直義は、土地をめぐる裁判や所領の安堵など、政治的な秩序の維持に深く関わっていました。
しかし、これらの仕事は完全に切り離せるものではありません。
戦功を挙げた武士に土地を与える場合、その土地には以前から権利を持つ人々がいるかもしれません。
軍功に報いることと、従来の権利を守ることが対立する場合があります。
また、尊氏の側近として大きな力を持った高師直と、直義の間でも対立が深まっていきました。
高師直は、軍事的な功績を重ねた武将です。
1338年には、北畠顕家を石津の戦いで破った人物でもありました。
その師直が、今度は幕府内部の政治的な対立の中心人物となっていきます。
ここで注目したいのは、足利兄弟の争いが単なる性格の不一致ではなかったということです。
政治をどのように運営するのか。
武士たちの軍功にどう報いるのか。
従来の土地の権利をどう守るのか。
そうした問題が、幕府内部の権力争いと結びついていました。
観応の擾乱という内戦
1349年、直義と高師直の対立は深刻になります。
高師直は軍勢を背景に直義を圧迫し、直義は幕府の政務から退くことになりました。
しかし、対立はそこで終わりません。
1350年、直義は南朝側と結び、尊氏・師直方に対抗するようになります。
それまで足利政権を支えてきた人物が、敵対していた南朝と協力したのです。
この一連の内乱を、観応の擾乱と呼びます。
室町幕府の成立から間もない時期に、幕府の中心人物たちが互いに戦うことになりました。
しかも、争いは京都周辺だけではありません。
関東や北陸、西国など、各地の武士たちが尊氏方と直義方に分かれました。
兄弟の政治的な対立が、全国規模の戦乱へと広がっていったのです。
敵だった南朝と手を結ぶ直義
ここで、歴史の奇妙な展開が生まれます。
足利直義は、それまで南朝に対抗する幕府の中心人物でした。
しかし、尊氏や高師直との争いの中で、南朝側と協力することになります。
直義にとって、南朝は本来の政治的な敵でした。
それでも、尊氏方に対抗するためには、新たな協力関係が必要だったのです。
同じことは、かつて北条時行にも起きていました。
時行は、父の幕府を滅ぼした後醍醐天皇の側に加わりました。
直義もまた、以前は敵対していた南朝へ接近しました。
南北朝時代には、こうした政治的な立場の変化が繰り返されていました。
しかし、単に敵と味方が入れ替わったと考えるだけでは不十分です。
それぞれの人物には、守ろうとする政治的な立場がありました。
協力関係が変わったからといって、過去の対立や、それぞれの目的が消えたわけではなかったのです。
高師直の最期
1351年、観応の擾乱は大きな転換点を迎えました。
直義方が優勢となり、尊氏方は敗北します。
そして、高師直とその一族は、摂津国武庫川付近で殺害されました。
かつて北畠顕家を破った高師直が、今度は足利政権内部の争いによって命を失ったのです。
北畠顕家が1338年に石津で戦死してから、約13年が経過していました。
しかし、顕家を破った側の政治体制も、決して安定していたわけではありませんでした。
勝利した者が、その後も同じ地位を保ち続けるとは限りません。
戦場での軍事的な成功と、政治的な権力を維持することは別の問題だったのです。
高師直の死後も、尊氏と直義の対立は終わりませんでした。
一度は和解した兄弟が、再び戦うことになります。
尊氏が再び南朝と手を結んだ
1351年、直義は京都を離れ、北陸を経て鎌倉へ向かいました。
直義を支える武士たちも、各地で活動していました。
一方、尊氏は直義を討つため、再び軍事行動を起こします。
ここで尊氏は、南朝と和睦しました。
直義がかつて協力した南朝に、今度は尊氏自身が接近したのです。
このとき成立したのが、正平一統と呼ばれる一時的な南北朝の和睦です。
ただし、和睦によって南北朝の政治的な対立が完全に解消されたわけではありません。
尊氏には、直義を討つという差し迫った軍事的な目的がありました。
一方、南朝にも、この和睦を利用して政治的な立場を回復しようとする思惑があったと考えられます。
両者の協力は、必ずしも同じ将来を目指したものではありませんでした。
そして尊氏は、東国へ向かいます。
鎌倉で再び向き合った兄弟
1351年末、尊氏は直義を追って関東へ進みました。
直義は鎌倉を拠点としていましたが、尊氏方との戦いで敗れます。
1352年1月、尊氏は鎌倉へ入りました。
直義は降伏し、尊氏の管理下に置かれます。
かつて1335年、北条時行の軍勢から鎌倉を守ろうとした兄弟。
その兄弟が、今度は鎌倉の支配をめぐって互いに戦っていたのです。
そして1352年2月26日、直義は鎌倉で亡くなりました。
毒殺されたとする説が広く知られています。
しかし、死因をめぐる記述は、史料の性格を踏まえて検討する必要があります。
尊氏が直義を殺害したという説明がある一方、病死を伝える記録もあります。
直義の死が兄弟対立の末に起きたことは確かですが、その具体的な死因については慎重に扱う必要があります。
直義の死から間もなく、再び戦乱へ
足利直義が亡くなった頃、南朝側は新たな軍事行動を進めていました。
1352年、南朝は京都方面と関東方面で攻勢をかけます。
関東では、宗良親王を奉じた新田氏の軍勢が動き始めました。
その中心となったのが、新田義興と新田義宗です。
二人は、新田義貞の息子でした。
義貞は、1333年の鎌倉幕府滅亡に大きく関わった人物です。
そして1338年、越前の藤島の戦いで命を落としていました。
父の死後も、新田一族は南朝側として足利方に対抗していたのです。
その新田兄弟の軍勢に、北条時行が加わりました。
ここに、非常に興味深い問題があります。
北条高時の息子と、新田義貞の息子
北条時行の父は北条高時でした。
新田義興と義宗の父は新田義貞でした。
1333年、新田義貞は鎌倉へ進軍し、北条氏を滅ぼしました。
北条高時は東勝寺で自害します。
時行は鎌倉から逃れました。
つまり、父の世代では、二つの一族は敵対する立場にありました。
ところが1352年、その息子たちは同じ側に立ちます。
なぜでしょうか。
北条氏と新田氏の間で、何らかの和解が成立したのでしょうか。
過去の敵対関係を超えるほど、足利尊氏への対抗が重要だったのでしょうか。
それとも、南朝の軍事的な方針に従って協力することになったのでしょうか。
この問題を直接説明する記録は限られています。
しかし、二つの一族が同じ軍事行動に加わったことは重要です。
父の世代の敵対関係が、そのまま子の世代の政治的な立場を決めたわけではなかったのです。
宗良親王を奉じた関東の軍勢
1352年閏2月。
南朝側の軍勢は上野国から武蔵国へ進みました。
その中心には、後醍醐天皇の皇子である宗良親王がいました。
宗良親王は、後醍醐天皇の皇子として南朝を支え、各地で活動していた人物です。
そのもとに新田義興、義宗らが集まりました。
さらに北条時行や、かつて足利直義を支持していた武士たちも加わっています。
ここに、当時の政治情勢の複雑さが表れています。
新田氏は南朝を支える一族でした。
北条時行は、かつて南朝の前身である建武政権と敵対した人物でした。
そして上杉憲顕らの旧直義方は、以前は足利政権の内部に属していました。
異なる歴史を持つ勢力が、足利尊氏に対抗するという目的のもとに集まっていたのです。
しかし、それぞれが戦後に何を実現しようとしていたのかは、必ずしも同じではなかったと考えられます。
1352年閏2月、鎌倉をめぐる戦い
新田義興や義宗らの軍勢が武蔵へ進むと、鎌倉にいた足利尊氏は対応を迫られました。
尊氏は鎌倉を出て、武蔵方面の軍勢に対抗しようとします。
その結果、鎌倉の守備が手薄になる状況が生まれました。
南朝方は、この機会に鎌倉へ進軍します。
『多摩市史』によれば、閏2月17日頃に南朝方が鎌倉へ迫り、翌18日には新田義宗らが鎌倉に入って占領したとされています。
北条時行も、この軍事行動に加わった人物の一人でした。
時行にとっては、再び鎌倉へ戻る機会となったのです。
1335年の中先代の乱。
1337年の北畠顕家による鎌倉攻略。
そして1352年の南朝軍による鎌倉占領。
時行は、長い年月を経て、三度にわたり鎌倉をめぐる戦いに関わったことになります。
鎌倉を取り戻しても、勝利ではなかった
1352年、南朝軍は一時的に鎌倉を占領しました。
しかし、その支配は長く続きませんでした。
尊氏は武蔵方面で南朝方の軍勢と戦い、反撃を続けます。
この一連の戦闘は、武蔵野合戦と呼ばれています。
南朝方には新田義興や義宗、北条時行らが加わっていました。
一方、尊氏方には関東各地の武士たちが参加していました。
両軍は小手指原、人見原、金井原などで戦いました。
さらに、笛吹峠でも激しい戦いが起こります。
南朝軍は一時的に優勢となる場面もありましたが、最終的には尊氏方が主導権を回復していきます。
鎌倉を占領することと、鎌倉を守り続けることは別の問題でした。
1335年の中先代の乱と同じように、時行たちは再びその難しさに直面したのです。
武蔵野合戦で何が起きたのか
武蔵野合戦は、現在の東京都西部から埼玉県南部にかけての広い地域で行われました。
小手指原は、1333年の新田義貞による鎌倉攻めでも戦場となった場所です。
同じ地域が、約20年の間に繰り返し大規模な戦乱に巻き込まれていました。
このことは、関東の交通路や地形が軍事行動に大きな影響を与えていたことを示しています。
鎌倉へ進むには、武蔵国を通過する必要がありました。
そのため、鎌倉街道に関わる交通路や、多摩川周辺の渡河地点は重要な意味を持っていました。
しかし、現代の地図で戦場を結ぶだけでは、当時の軍勢の行動を完全に再現することはできません。
道路や河川の状況は現在と異なる部分もありました。
また、各地の武士たちがどちらに属していたかによって、軍勢の進みやすさも変わったはずです。
武蔵野合戦を理解するには、戦闘だけでなく、地形と地域の勢力関係にも目を向ける必要があります。
笛吹峠での敗北
1352年閏2月下旬、南朝方は笛吹峠付近で足利尊氏の軍勢と戦いました。
現在の埼玉県鳩山町から嵐山町周辺にあたります。
新田義宗らの軍勢は、この戦いで敗れたと伝えられています。
笛吹峠の戦いによって、南朝方の関東進出は大きな打撃を受けました。
鎌倉を占領した軍勢も、尊氏方の反撃を受け、最終的に撤退することになります。
ただし、武蔵野合戦の各戦闘については、軍記物と同時代史料で日時や戦闘経過の記述が異なる部分があります。
そのため、個々の武将が何日にどこで戦ったかを、すべて一つの年表で確定できるわけではありません。
重要なのは、南朝方が一度は鎌倉を占領しながら、その後の戦いに敗れ、鎌倉を維持できなかったということです。
北条時行は、どこで戦っていたのか
ここで、今回の重要な謎に戻ります。
北条時行は、1352年の武蔵野合戦に参加しました。
しかし、各戦闘で時行がどの部隊を率い、どの地点にいたのかについては、記録が限られています。
新田義興や義宗と、常に同じ場所で戦っていたとは限りません。
また、鎌倉を占領した際に時行がどのような政治的な役割を果たしたのかも、明確ではありません。
北条氏の後継者として鎌倉の支配を目指していたのでしょうか。
それとも、南朝方の軍事行動に参加すること自体を優先していたのでしょうか。
この点を判断するには、時行自身の発給文書や軍忠状など、具体的な史料が重要になります。
軍記物の記述だけから、時行のすべての判断を復元することはできません。
しかし、時行が三度目となる鎌倉をめぐる戦いに関わったことは、その生涯を考えるうえで見逃せない事実です。
三度鎌倉を目指した意味
北条時行の生涯を振り返ると、鎌倉という土地が繰り返し登場します。
1333年、鎌倉から逃亡。
1335年、鎌倉を奪還。
1337年、顕家軍とともに再び鎌倉へ。
1352年、南朝方の軍勢とともに三度目の鎌倉攻略へ。
時行は何度も鎌倉を目指しました。
しかし、そのたびに政治情勢は変わっていました。
1335年には北条氏の再興を掲げていました。
1337年には南朝方として足利氏に対抗していました。
1352年には、足利政権の内紛という新たな情勢の中で鎌倉へ進みました。
ここで考えたいことがあります。
時行にとって鎌倉は、失われた故郷だったのでしょうか。
得宗家の政治的な権威を回復するための場所だったのでしょうか。
それとも、足利氏に対抗するために欠かせない軍事的な拠点だったのでしょうか。
その答えは一つではなかった可能性があります。
しかし、時行本人の感情を示す確かな記録は限られています。
繰り返し鎌倉へ向かったという行動を、彼の歴史を理解するための手がかりとする必要があります。
新田一族と北条時行の運命
1352年の戦いでは、新田義興や義宗が時行と同じ側に立ちました。
父・新田義貞が倒した幕府の生き残りと、義貞の息子たち。
その関係を考えると、単なる敵味方という分類では説明できないものがあります。
時行にとって、新田義貞は父の幕府を滅ぼした人物でした。
しかし、新田義興や義宗にとっても、足利尊氏は父が命を懸けて戦った相手でした。
それぞれの一族は、異なる経緯によって足利氏と対立するようになっていました。
過去には敵だった二つの一族が、現在の共通の敵に対抗するために協力する。
そこには、南北朝時代の現実的な政治判断がありました。
ただし、同じ軍勢に参加したことだけで、両者が互いの過去を許し合ったと考えることはできません。
戦場で協力することと、歴史的な対立を解消することは別です。
その違いが、時行と新田一族の関係に残された謎でもあります。
勝利した尊氏にも、平穏は戻らなかった
武蔵野合戦では、最終的に足利尊氏が主導権を回復しました。
しかし、尊氏にとっても、すべての問題が解決したわけではありません。
弟・直義との対立によって、幕府の内部には大きな傷が残りました。
直義を支持していた武士たちの中には、その後も尊氏方に対抗する者がいました。
また、南朝との対立も続きました。
足利直冬など、尊氏に敵対する立場を取った足利一門の人物も活動していました。
つまり、1352年の勝利によって、足利政権が完全に安定したわけではなかったのです。
ここにも、北条時行の生涯と共通する問題があります。
戦いに勝つことと、政治的な秩序を維持することは同じではありません。
尊氏もまた、長い戦乱の中で多くの人々との関係を調整し続けなければならなかったのです。
三度目の鎌倉奪還、その後
1352年、北条時行は新田義興や義宗らとともに鎌倉をめぐる戦いに参加しました。
しかし、南朝方は最終的に敗北し、鎌倉を維持することはできませんでした。
そして、この戦いの後、時行の足跡は再び見えにくくなります。
ただし、今回は以前とは違いました。
時行の最期が近づいていたのです。
1353年、北条時行は鎌倉で処刑されたと伝えられています。
処刑された場所は、龍ノ口。
現在の神奈川県藤沢市片瀬周辺にあたります。
しかし、そこに至る経緯には、なお不明な点が残されています。
いつ、どこで捕らえられたのでしょうか。
誰が時行を捕らえたのでしょうか。
そして、足利尊氏は北条時行の処刑をどのように判断したのでしょうか。
何度も戦乱から生き延びた人物が、ついに逃れられなくなった理由は何だったのでしょうか。
時行の人生が問いかけるもの
北条時行は、鎌倉幕府が滅亡した後も生き延びました。
諏訪氏に守られ、鎌倉を奪還しました。
南朝へ加わり、北畠顕家とともに足利尊氏と戦いました。
そして1352年には、新田義貞の息子たちと協力して再び鎌倉へ向かいました。
その生涯には、何度も敵と味方が入れ替わる出来事がありました。
しかし、時行が単に政治的な立場を変え続けた人物だったというだけでは、十分に理解できません。
一つの政権が滅亡しても、人々のつながりは残ります。
父の世代で敵対した一族が、子の世代で協力することもあります。
そして、同じ目的のために戦っていても、それぞれが守ろうとするものは異なるかもしれません。
北条時行の歴史は、南北朝時代の複雑な政治と人間関係を考えるうえで、重要な手がかりを残しています。
そして、その最後には、まだ解かれていない謎があります。
次回は「龍ノ口の最期、その死に残された謎」。
1353年、北条時行は鎌倉で処刑されたと伝えられています。
しかし、処刑に至る経緯や、最期を伝える史料には検討すべき点があります。
何度も生き延びた北条時行は、なぜ最後には捕らえられたのでしょうか。
そして、北条氏の生き残りを支えてきた人々は、その後どうなったのでしょうか。
一人の人物の最期を追いながら、北条一族の歴史に残された謎をさらに掘り下げます。