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北条時行とその一族【第9回】

2015.09.01

北畠顕家と北条時行、奇妙な運命共同体

滅ぼした側と滅ぼされた側。二人はなぜ同じ旗の下で戦ったのか

1337年。

南北朝の対立が始まった日本で、歴史の不思議な巡り合わせが生まれました。

北畠顕家と北条時行。

一人は、後醍醐天皇に仕える若き公卿。

もう一人は、その後醍醐天皇が滅ぼした鎌倉幕府の、最後の得宗・北条高時の息子でした。

1333年、鎌倉幕府が滅亡したとき、二人はまったく異なる立場にいました。

顕家は建武政権の成立後、奥州の統治を任されます。

時行は鎌倉を追われ、諏訪氏に守られて信濃へ逃れました。

1335年、時行が中先代の乱を起こしたときも、二人は同じ政治的な立場ではありませんでした。

ところが、わずか二年後。

二人は足利尊氏という共通の敵に対抗することになります。

そして1337年12月、顕家の軍勢は鎌倉を攻略しました。

時行もまた、その軍事行動に加わったと伝えられています。

なぜ、この二人が協力することになったのでしょうか。

過去の対立は、どのように扱われたのでしょうか。

そして、二人の協力関係は、本当に同じ未来を目指したものだったのでしょうか。

今回は、奥州から進軍する顕家と、鎌倉を取り戻そうとする時行の足跡を重ねながら、南北朝時代の奇妙な運命共同体を追いかけます。

京都の公卿と鎌倉の少年

北畠顕家は1318年に生まれました。

父は北畠親房。

村上源氏の流れをくむ公家の家柄で、後醍醐天皇の側近として知られた人物です。

顕家は少年時代から朝廷で異例の昇進を重ね、1333年には16歳で陸奥守となりました。

そして、後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて奥州へ向かいます。

一方、北条時行は鎌倉で生まれ育ちました。

父・高時は北条得宗家の当主であり、鎌倉幕府の政治に大きな影響力を持っていました。

しかし1333年、幕府は滅亡します。

高時は東勝寺で自害し、時行は鎌倉から逃れました。

顕家にとって1333年は、新たな政治的役割を与えられた年でした。

時行にとっては、父と本拠地、そして一族の政治的な立場を失った年でした。

二人の人生は、まったく異なる方向へ動き始めたのです。

二人の間にあった鎌倉幕府の滅亡

顕家と時行の関係を考えるうえで、避けて通れないのが鎌倉幕府の滅亡です。

顕家が仕えた後醍醐天皇は、幕府打倒を進めた政治的な中心人物でした。

その一方で、時行は倒された幕府の後継世代にあたります。

時行を守った諏訪氏は、北条得宗家に長く仕えてきた一族でした。

諏訪頼重らは、1335年に時行を奉じて挙兵します。

そして鎌倉の奪還に成功しました。

しかし、足利尊氏の反撃によって時行軍は敗れ、頼重らは命を落としました。

時行は、再び逃亡します。

つまり、1337年に顕家と時行が協力する以前には、深い政治的な対立が存在していました。

では、何がその関係を変えたのでしょうか。

共通の敵となった足利尊氏

1335年、中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は、鎌倉にとどまり、後醍醐天皇との対立を深めました。

翌1336年、尊氏は京都を掌握します。

後醍醐天皇は吉野へ移り、南北朝の対立が本格化しました。

この変化によって、北条時行を取り巻く政治情勢も大きく変わります。

1333年には、後醍醐天皇と尊氏が同じ側で鎌倉幕府を倒しました。

1335年には、尊氏が後醍醐天皇側の立場から時行を討伐しました。

しかし1336年以降、後醍醐天皇と尊氏は互いに敵対するようになりました。

時行にとって、尊氏は1335年に鎌倉を奪った相手です。

後醍醐天皇にとって、尊氏は自らの政権から離反した相手でした。

過去の立場は違っていても、両者には足利尊氏に対抗するという共通の目的が生まれたのです。

時行は本当に後醍醐天皇を許したのか

『太平記』には、時行が後醍醐天皇へ赦免を願い出たという話が記されています。

そこでは、父・高時の時代の政治的な責任を認める一方、足利尊氏の行動を非難する論理が語られています。

しかし、この記述を時行本人の実際の発言として、そのまま受け取ることはできません。

『太平記』は軍記物であり、人物の言葉や行動には文学的な構成が含まれています。

それでも、時行が南朝側に加わったことを説明するうえで、重要な手がかりになります。

ここで考えたいのは、政治的な協力と個人的な感情の違いです。

時行が後醍醐天皇の側へ加わったからといって、父の死や鎌倉幕府の滅亡を忘れたとは限りません。

逆に、過去の敵対関係があったからといって、協力が不可能だったわけでもありません。

時行と南朝の間には、足利氏に対抗するという現実的な目的が存在していました。

同じ敵を持つことと、同じ政治的な理想を持つことは別です。

その違いが、この協力関係を考える重要な視点になります。

奥州でも追い詰められていた顕家

一方、北畠顕家も厳しい状況に置かれていました。

1333年、顕家は多賀城を拠点に奥州の統治を始めました。

結城宗広や伊達行朝、南部氏など、奥州の有力武士たちの協力を得ながら、新しい政治体制を整えようとします。

しかし、1335年に足利尊氏が建武政権から離反すると、顕家は奥州から西上し、尊氏と戦いました。

第一次西上です。

顕家は新田義貞や楠木正成らとともに尊氏を九州へ退かせることに貢献しました。

ところが、尊氏は再び勢力を立て直して京都を掌握します。

奥州でも足利方の活動が活発になり、顕家の統治基盤は次第に不安定になりました。

1337年1月、顕家は拠点を多賀城から霊山へ移しています。

そして同年8月、後醍醐天皇の要請に応えて二度目の西上を開始しました。

顕家にとっても、足利尊氏との戦いは避けられない政治的・軍事的な問題となっていたのです。

1337年、二つの道が交わり始める

1337年8月、顕家は奥州から南下を始めました。

その軍勢には、奥州の武士たちが加わっていました。

結城宗広。

伊達行朝。

そして、各地で協力する武士たちです。

顕家の目的は、京都方面の足利勢力に対抗することでした。

一方、時行は南朝側に加わり、伊豆方面で活動したと『太平記』に描かれています。

二人は最初から同じ場所で出陣したわけではありません。

顕家は奥州から関東へ。

時行は伊豆など東国で足利方に対抗する立場から。

それぞれ異なる道を歩みながら、同じ鎌倉を目指す軍事行動へ関わることになります。

ここで重要なのは、二人がいつ、どこで、どのような条件で連携を始めたのかという問題です。

両者の正確な合流地点や、それまでの連絡の実態を詳しく示す史料は限られています。

『太平記』の叙述から協力関係を知ることはできますが、軍勢の指揮系統まで完全に再現できるわけではありません。

それでも、顕家と時行が同じ足利方に対抗したことは、当時の政治的な関係の変化を示しています。

顕家軍の関東進撃

奥州から南下した顕家軍は、1337年12月に関東へ進出しました。

12月13日には利根川付近で足利方の軍勢と戦い、これを破ったとされています。

その後、武蔵国へ進みます。

安保原や浅見山などで戦闘を重ねながら、武蔵府中へ入りました。

現在の東京都府中市周辺にあたります。

『多摩市史』には、顕家軍が武蔵府中に五日間滞在したことが記されています。

この進軍では、各地の武士たちが顕家軍へ加わりました。

しかし、どの武士団がいつ参加し、どの程度の軍勢となったのかについては、史料による検討が必要です。

軍記物に記された数万、数十万という兵数を、そのまま実際の兵力と考えることはできません。

重要なのは、顕家軍が奥州から関東へ進み、足利方の迎撃軍と戦いながら鎌倉を目指したということです。

軍勢が通過した土地では何が起きたのか

ここで、顕家と時行の軍事行動を考えるうえで見逃せない記述があります。

『太平記』巻第十九には、顕家軍の進軍に伴い、民家への略奪や神社仏閣への被害が生じたという描写があります。

この記述は、英雄的な遠征物語とは異なる側面を示しています。

軍勢が遠くへ移動するには、食料が必要です。

馬の飼料も必要です。

武器や装備を維持するための物資も必要です。

当時の軍勢は、現代の軍隊のように一元化された補給制度だけで活動していたわけではありません。

進軍先で物資を調達することがあり、その過程で地域の住民に負担や被害が及ぶこともありました。

ただし、『太平記』の具体的な被害描写を、すべて実際の出来事として確定することはできません。

軍記物特有の誇張や文学的な表現も考慮する必要があります。

それでも、戦場の勝敗だけを追っていては見えない人々がいたことは重要です。

戦う武士たちだけでなく、進軍経路に暮らしていた人々も、戦乱の影響を受けていたのです。

北条時行の軍勢は誰だったのか

時行が顕家の軍事行動に加わったとき、その周囲にはどのような武士たちがいたのでしょうか。

まず考えられるのは、北条氏の旧臣や、その政治的な立場に協力する勢力です。

しかし、1335年の中先代の乱に参加した武士たちが、そのまま1337年にも全員参加したとは限りません。

諏訪頼重や時継らは、すでに命を落としていました。

一方、信濃や関東には北条氏を支持する勢力が残っていました。

時行自身がどの程度の兵力を動員できたのかは、明確ではありません。

また、時行を支持する武士たちが、南朝への協力について全員一致していたかどうかも分かりません。

北条氏への忠誠。

足利氏への対抗。

領地を守るための判断。

そうした異なる理由が重なっていた可能性があります。

顕家軍と時行方の関係を考えるときにも、単純に一つの軍勢へ完全に統合されたと決めつけることはできません。

それぞれの武士団が持つ歴史や利害を考える必要があります。

1337年12月24日、鎌倉攻略

顕家軍は、1337年12月24日に鎌倉を攻略しました。

このとき鎌倉には、足利尊氏の子・義詮がいました。

また、足利方の有力武将である斯波家長らが、東国の防衛を担っていました。

しかし、顕家軍の進撃を止めることはできませんでした。

義詮は鎌倉から退き、斯波家長は杉本城で戦死したと伝えられています。

この戦いによって、鎌倉は一時的に南朝方の手に渡りました。

そして北条時行も、再び鎌倉に入ったとされています。

時行にとっては、1335年の中先代の乱に続く二度目の鎌倉入りでした。

しかし、今回の鎌倉攻略には、以前とは異なる政治的な意味がありました。

1335年には、北条氏の再興を掲げた軍勢として鎌倉へ入りました。

1337年には、後醍醐天皇側の軍事行動に関わる立場で鎌倉へ入ったのです。

同じ土地を取り戻しても、その背景は変わっていました。

鎌倉は誰のものだったのか

鎌倉という土地は、北条時行にとって特別な意味を持っていたと考えられます。

父・高時が命を落とした土地。

北条氏が長年にわたり政治を動かしてきた土地。

そして、自らが二度にわたり奪還した土地。

一方、北畠顕家にとって鎌倉は、京都方面へ進むうえで重要な東国の軍事拠点でした。

顕家の目的は、鎌倉に新たな幕府を築くことではありませんでした。

後醍醐天皇を支えるために、足利方の勢力へ対抗することでした。

ここに、二人の目的の違いがあった可能性があります。

時行は鎌倉との関係を重視していたと考えられます。

顕家は京都方面への遠征を続ける必要がありました。

では、鎌倉を攻略した後、二人は何を目指したのでしょうか。

時行は、鎌倉にとどまって北条氏の立場を回復しようとしたのでしょうか。

それとも、顕家とともに西へ進むことを優先したのでしょうか。

史料に記された軍事行動を追うことで、この問題を考える手がかりが得られます。

鎌倉を出発した顕家軍

1338年1月2日、顕家は鎌倉を出発し、京都方面へ向かいました。

鎌倉を攻略したからといって、遠征の目的を達成したわけではありません。

顕家軍はさらに西へ進む必要がありました。

一方、時行も顕家側の軍事行動に関わり、青野原の戦いに参加したと伝えられています。

しかし、時行が顕家の軍勢の中でどのような指揮権を持っていたのかは明確ではありません。

時行は得宗家の後継者でしたが、1338年の軍事行動では南朝側の協力者という立場にありました。

顕家は朝廷から任命された指揮官です。

二人の政治的な立場は同じではありません。

そのため、軍勢の中でどのような役割分担が行われていたのかは、重要な研究課題です。

青野原の戦い、再び同じ敵と向き合う

1338年1月28日。

顕家軍は美濃国青野原で足利方の軍勢と戦いました。

現在の岐阜県大垣市赤坂町周辺です。

この戦いには、足利方の高師泰、高師冬、土岐頼遠らが関わりました。

顕家軍には、北条時行の率いる北条氏の旧勢力も加わっていたとされています。

青野原で顕家軍は足利方を破りました。

しかし、この勝利は京都奪還にはつながりませんでした。

顕家軍は伊勢方面へ進路を変え、その後、大和へ向かいます。

なぜ、勝利した軍勢が京都へ直接進めなかったのでしょうか。

足利方の別の軍勢が進路を阻んでいたこと。

遠征軍が連戦によって消耗していた可能性。

そして、別方面で戦う新田義貞との連携が実現しなかったこと。

複数の問題が関係していたと考えられます。

ただし、転進の理由を一つに断定することはできません。

重要なのは、顕家と時行が加わった軍勢が、戦場で勝利しながらも京都奪還という目的を達成できなかったということです。

青野原で二人は何を考えていたのか

青野原の戦いを考えると、二人の立場の違いが改めて浮かび上がります。

顕家は、後醍醐天皇を支えるために京都を目指していました。

時行は、足利氏に対抗するため、かつての敵である南朝側に加わっていました。

同じ戦場で戦っていても、二人が同じ政治的な未来を望んでいたとは限りません。

仮に京都奪還に成功していたら、時行はどのような立場になったのでしょうか。

北条氏の旧領や政治的な権利は、どこまで認められたのでしょうか。

鎌倉の統治は、誰が担うことになったのでしょうか。

顕家と時行の間で、そのような問題について具体的な合意があったのかどうかは分かりません。

しかし、協力して戦うことと、戦後の政治的な秩序を共有することは別の問題です。

二人の関係を理解するには、その違いを意識する必要があります。

北条時行は、顕家の部下だったのか

後世の歴史解説では、時行が顕家に従ったという表現が用いられることがあります。

しかし、その言葉の意味には注意が必要です。

時行が顕家軍の軍事行動に加わったことと、北条得宗家の後継者としての立場を完全に捨てたことは同じではありません。

また、軍勢に参加した武士団の指揮系統が、現代の軍隊のように一元化されていたとも限りません。

中世の軍勢には、複数の武士団がそれぞれの指揮官の下で参加する場合がありました。

政治的な目的が一致することで、共同作戦が成立することもあります。

顕家と時行の関係も、そうした中世の軍事的な協力関係として考える必要があります。

ただし、具体的な命令文書や指揮の実態を確認しなければ、両者の上下関係を細かく断定することはできません。

少なくとも、顕家と時行が異なる政治的な背景を持ちながら、同じ足利方に対抗したことは重要です。

遠征の背後にいた人々

顕家と時行の名前を追うと、歴史は二人の物語のように見えてきます。

しかし、実際には多くの人々が関わっていました。

奥州から参加した結城氏や伊達氏の武士たち。

北条氏の旧勢力に属する人々。

関東で顕家軍に加わった武士たち。

さらに、軍勢が通過した地域に暮らす人々。

彼らは、必ずしも同じ政治的な目的を持っていたわけではありません。

戦いに参加した武士たちは、それぞれの領地や家族を守る立場にありました。

一方、軍勢が通過する地域の住民にとって、戦争は生活を脅かす出来事でもありました。

顕家軍の進軍に伴う略奪や被害を描いた『太平記』の記述は、こうした現実を考える手がかりとなります。

ただし、軍記物の具体的な描写を、そのまま実際の被害の規模として扱うことはできません。

それでも、戦場で勝利した人物だけでなく、その行動によって影響を受けた人々にも目を向ける必要があります。

1338年、二人の運命は再び分かれる

青野原の戦いの後、顕家軍は伊勢方面へ進みました。

さらに大和へ向かいましたが、般若坂周辺で足利方に敗れます。

顕家はその後も河内や和泉方面で戦いを続けました。

しかし、1338年5月22日、石津の戦いで高師直の軍勢に敗れ、命を落としました。

享年21歳でした。

一方、北条時行は生き延びました。

顕家とともに青野原まで戦ったとされる時行が、その後どの時点で、どのように顕家軍から離れたのかについては、不明な点が残されています。

重要なのは、顕家が戦死した後も、時行が再び軍事行動を起こす人物として歴史に登場することです。

顕家にとっては、二度目の西上が最後の遠征となりました。

しかし、時行にとって戦いは終わりませんでした。

ここに、二人の運命の大きな違いがあります。

滅ぼした側と滅ぼされた側が、ともに戦った意味

北畠顕家と北条時行。

二人は、まったく異なる歴史を背負っていました。

顕家は後醍醐天皇の政治を支える立場でした。

時行は、その政権によって滅亡した鎌倉幕府の後継者でした。

しかし、足利尊氏という共通の敵が生まれたことで、二人は協力することになります。

この関係を友情として描くことはできません。

また、単なる打算だけだったと断定することもできません。

二人が互いをどう評価し、どのような感情を持っていたのかは分かりません。

しかし、実際に同じ側で戦ったという行動は残されています。

政治的な立場が違っていても、共通の目的のために協力することはあります。

そして、その協力関係がどれほど続くのかは、戦況や政治情勢によって変化します。

南北朝時代の歴史は、そのような複雑な人間関係の積み重ねでもありました。

もう一度、鎌倉へ

北条時行は1335年に鎌倉を奪還しました。

1337年にも、顕家軍とともに再び鎌倉へ入ったとされています。

しかし、いずれも長く鎌倉を支配することはできませんでした。

そして顕家の死後、時行は再び歴史の記録から姿が見えにくくなります。

ここで、新たな謎が生まれます。

時行は、どこへ向かったのでしょうか。

顕家とともに戦った人々との関係は、その後も続いていたのでしょうか。

北条氏の旧臣たちは、時行を支え続けていたのでしょうか。

そして、なぜ時行は、その後も足利氏に対抗することができたのでしょうか。

時行の歴史には、大きな敗北のたびに生き延び、再び姿を現すという特徴があります。

1333年、鎌倉幕府滅亡。

1335年、中先代の乱の敗北。

そして1338年、北畠顕家の戦死。

時行は、そのいずれの戦乱からも生き延びました。

しかし、その間の足取りがすべて分かっているわけではありません。

次回は「顕家戦死後、時行はどこへ消えたのか」。

1338年5月、北畠顕家は和泉国石津で戦死しました。

その一方、北条時行は再び信濃方面で活動することになります。

時行は、いつ顕家軍と別れたのでしょうか。

誰が時行を支え続けていたのでしょうか。

そして、諏訪頼重を失った諏訪一族との関係は、その後どうなっていたのでしょうか。

北条時行の三度目の逃亡と、信濃に残された足跡を追いかけます。

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