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北条時行とその一族【第7回】

2015.08.30

再び消えた北条時行、その行方

諏訪頼重を失った少年は、どこで生き延び、誰に守られていたのか

1335年8月19日。

鎌倉は、再び足利尊氏の手に落ちました。

わずか二十日余り前、北条時行を奉じた軍勢が奪還したばかりの鎌倉です。

時行軍の中心だった諏訪頼重とその子・時継らは、鎌倉の勝長寿院で自害しました。

『太平記』には、頼重らが最期を迎えた際、遺体の顔が判別できない状態だったという奇妙な記述が残されています。

それは、北条時行の生死を分からなくするためだったのでしょうか。

実際の目的を確かめることはできません。

しかし、時行本人は生き延びていました。

1333年、鎌倉幕府が滅亡したとき。

そして1335年、中先代の乱に敗れたとき。

北条時行は、二度にわたって一族や支持者たちが大きな犠牲を払う戦乱から逃れたのです。

ところが、その後の足取りは、急に分からなくなります。

彼はどこへ向かったのでしょうか。

諏訪頼重を失った後、誰が時行を守ったのでしょうか。

そして、再び歴史の表舞台に現れるまで、どのような人々が北条氏の生き残りを支えていたのでしょうか。

今回は、史料に残されたわずかな手がかりをつなぎながら、北条時行の失われた時間を追いかけます。

鎌倉を出た時行は、どこへ向かったのか

中先代の乱が敗れた後、北条時行は鎌倉から逃れました。

しかし、その逃亡経路を詳しく記した同時代の記録は確認されていません。

信濃へ戻ったとする説明があります。

諏訪氏と北条氏の関係を考えれば、信濃が再び逃亡先となった可能性はあります。

しかし、可能性があることと、実際にその道を通ったことは別です。

1335年8月の信濃には、建武政権に従う勢力と北条氏を支持する勢力が存在していました。

時行が信濃へ戻ったとしても、以前と同じように安全に暮らせたとは限りません。

また、関東各地には鎌倉幕府の時代から北条氏と関係を持つ武士たちがいました。

そのような人々の協力を得た可能性も考えられます。

しかし、具体的な保護者や潜伏場所を確定できなければ、それ以上を事実として描くことはできません。

私たちに分かっているのは、時行が生き延びたということです。

そして、足利尊氏の軍勢に捕らえられなかったということです。

足利尊氏は時行を追い続けたのか

足利尊氏にとって、北条時行は危険な存在でした。

時行は鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の息子です。

しかも、実際に兵を挙げ、鎌倉を奪還することに成功していました。

一度敗れたとしても、再び北条氏の旧臣たちを集める可能性があります。

しかし、尊氏が時行の行方をどこまで把握し、どのような追捕を命じていたのかについては、個々の史料を確認する必要があります。

中先代の乱の後も、北条氏を支持する勢力への追討は続きました。

長野県立歴史館が公開する『信濃史料』には、1335年8月26日に北条時行の党を討伐するよう命じた記録があります。

さらに9月には、信濃各地で時行方に属した武士たちが攻撃されています。

つまり、鎌倉での敗北によって、北条氏を支持する勢力がすべて消えたわけではありませんでした。

追討する側から見れば、反乱の中心人物が逃亡したままなのです。

そして、時行を支えた勢力も各地に残っていました。

この状況は、足利方や建武政権にとって無視できない問題だったと考えられます。

諏訪頼重が死んでも、諏訪氏は消えなかった

1335年8月19日、諏訪頼重と時継らは自害しました。

しかし、諏訪氏の一族全体が滅亡したわけではありません。

『信濃史料』には、頼重の孫・頼経が諏訪郡原郷に隠れたという記録があります。

また、諏訪上社の大祝も別の人物へ引き継がれていきました。

ここで重要なのは、一族の中心人物が亡くなっても、地域に残る人々や信仰の仕組みが失われるとは限らないということです。

諏訪氏には、長年にわたり築いてきた地域の基盤がありました。

諏訪社を中心とする祭祀。

土地を守る一族。

周辺の武士たちとの関係。

幕府が滅亡し、頼重が命を落としても、それらが一度に消滅したわけではなかったのです。

では、その中に時行を守り続けた人々がいたのでしょうか。

可能性として考えることはできます。

しかし、頼重の孫が生き延びたという事実だけで、時行との接触が続いていたと断定することはできません。

ここには、まだ史料で埋められない空白があります。

時行を支えた人々は、なぜ名前を残していないのか

歴史の記録には、戦いに勝った人物や、政治的な命令を出した人物の名前が残りやすい傾向があります。

一方、逃亡者をかくまった人々や、日々の生活を支えた人々の名前は、必ずしも記録されません。

時行が逃亡生活を続けていたとすれば、食料や衣服を必要としたはずです。

安全に過ごすための場所も必要だったでしょう。

病気や負傷があれば、助ける人も必要になります。

そして、各地の政治情勢を知るためには、外部との連絡も欠かせません。

しかし、誰がそれらを用意したのかは分かりません。

時行の逃亡を支えた人々が実際にどの程度存在したのか、その人数も確定できません。

それでも、北条得宗家の後継者が長期間生き延びたことを考えると、周囲の人々の協力があった可能性は高いでしょう。

北条時行の歴史を追うと、有名な武将の名前が記録に残る一方で、その生涯を支えた人々の姿が見えにくいことに気づきます。

その見えない部分こそ、歴史ミステリーとして考えてみたいところです。

逃亡生活は、いつまで続いたのか

北条時行は、1335年に中先代の乱で敗れました。

そして1337年には、南朝の後醍醐天皇の側に加わったとされています。

つまり、この二年間ほどの間に、時行の政治的な立場は大きく変化したことになります。

ただし、時行がその期間のすべてを潜伏生活として過ごしていたと断定することはできません。

記録に名前が見えないからといって、何も活動していなかったとは限りません。

反対に、後に南朝へ加わったからといって、早い段階から後醍醐天皇側と連絡を取っていたと考えることもできません。

空白の期間に何が起きていたのか。

いつ政治的な方向転換を決めたのか。

誰が交渉を担ったのか。

これらは、時行の生涯を理解するうえで重要な問題です。

父を滅ぼした人々の側へ

1337年、北条時行は南朝に帰順し、後醍醐天皇の側に加わったとされています。

ここに、時行の生涯で最も不思議な転換があります。

1333年、後醍醐天皇の倒幕運動によって鎌倉幕府は滅亡しました。

北条高時は東勝寺で自害し、時行は鎌倉から逃れました。

1335年、時行は建武政権に反対して挙兵し、鎌倉を一時的に奪還しました。

つまり、時行にとって後醍醐天皇の政権は、かつて自分たちを滅ぼした側でした。

その時行が、今度は後醍醐天皇の側に加わるのです。

なぜでしょうか。

父の敵を許したのでしょうか。

北条氏の再興を諦めたのでしょうか。

それとも、足利尊氏と戦うために、新たな政治的な協力関係を選んだのでしょうか。

時行本人の心情を直接示す記録は限られています。

そのため、理由を一つに決めることはできません。

しかし、当時の政治情勢を見ると、この選択の背景を考える手がかりがあります。

敵が変わった南北朝の世界

1335年、時行を鎌倉から追い出したのは足利尊氏でした。

そして尊氏は、中先代の乱を鎮圧した後、後醍醐天皇の政権と対立するようになります。

1336年、尊氏は京都を掌握しました。

後醍醐天皇は吉野へ移り、南北朝の対立が始まります。

ここで政治的な関係が大きく変わりました。

1333年には、後醍醐天皇と足利尊氏は鎌倉幕府を倒す側に立っていました。

1335年には、北条時行が建武政権に反抗し、尊氏がその反乱を鎮圧しました。

しかし1336年以降、後醍醐天皇と尊氏は敵対する立場になっていました。

かつて同じ側にいた人々が、今度は互いに戦っているのです。

その状況で時行が後醍醐天皇側に加われば、尊氏と戦うことができます。

足利氏という共通の敵が生まれたことは、時行と南朝の協力を考える重要な要因です。

ただし、敵が同じだからといって、政治的な目的まで一致していたとは限りません。

時行には時行の立場があり、後醍醐天皇には後醍醐天皇の政治構想がありました。

両者の関係を、単純な和解として描くことはできないのです。

時行にとって鎌倉とは何だったのか

北条時行の行動を追うと、鎌倉という土地が繰り返し登場します。

1333年、鎌倉から逃亡。

1335年、鎌倉を奪還。

同年、再び鎌倉を失う。

そして、その後も時行は鎌倉をめぐる戦いに関わることになります。

なぜ、そこまで鎌倉にこだわったのでしょうか。

鎌倉は、北条得宗家が長年にわたって政治を動かしてきた場所でした。

父・高時が命を落とした場所でもあります。

また、東国の武士たちにとって重要な政治・軍事の中心でもありました。

時行が鎌倉を手にすることには、単に故郷へ戻ること以上の意味があったと考えられます。

しかし、時行が個人的な思いから鎌倉を奪還しようとしたのか、それとも政治的な権力の回復を目指したのかは、慎重に考える必要があります。

本人の感情を伝える確かな言葉は残されていません。

だからこそ、何度も鎌倉へ向かったという行動そのものを、重要な手がかりとして考えたいと思います。

北畠顕家と出会うまで

1337年、時行が南朝に加わった頃、北畠顕家も大きな転機を迎えていました。

顕家は後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じ、奥州の統治を担っていた人物です。

しかし、足利方の勢力が奥州にも広がり、多賀城を拠点とする統治体制は維持が難しくなっていました。

顕家は霊山へ移り、再び西上を開始します。

第二次西上です。

時行は、この顕家の軍勢に加わることになります。

ここには興味深い関係があります。

北畠顕家は、後醍醐天皇に仕える公卿でした。

北条時行は、後醍醐天皇が倒した鎌倉幕府の得宗家の生き残りです。

本来であれば、異なる政治的な立場にいる二人でした。

しかし、足利尊氏に対抗するという目的のもとで、同じ軍事行動に加わることになります。

二人がどのように出会い、どのような会話を交わしたのかを示す記録はありません。

時行が顕家をどのように評価していたのかも分かりません。

それでも、1337年以降、二人が同じ側で戦ったことは重要です。

南北朝時代の政治的な関係が、いかに複雑だったかを示しているからです。

時行は北条氏の再興を諦めたのか

南朝に加わった時行は、北条氏の再興を諦めたのでしょうか。

これは簡単には答えられない問題です。

南朝に加わることは、足利氏に対抗するための政治的な選択だった可能性があります。

しかし、それによって時行が北条得宗家の立場を忘れたと考える必要はありません。

また、かつての鎌倉幕府をそのまま復活させようとしていたかどうかも、はっきりしません。

1335年の中先代の乱と、1337年以降の南朝への協力では、時行を取り巻く政治情勢が大きく異なっていました。

時行自身も、成長と経験によって考え方を変えていた可能性があります。

ただし、その内面の変化を具体的に確認できる記録は限られています。

重要なのは、時行が状況に応じて政治的な協力関係を変えながらも、足利氏に対抗し続けたということです。

その行動には、一族の存続や鎌倉との関係を考えるうえで、多くの問いが残されています。

生き残ることは、何を意味したのか

北条時行は、二度にわたって大きな戦乱から生き延びました。

しかし、生き残ったからといって、以前の生活に戻れたわけではありません。

父は亡くなりました。

鎌倉幕府は滅亡しました。

時行を守った諏訪頼重も命を落としました。

そして、時行は再び追われる立場になりました。

その後、南朝に加わるという大きな選択をします。

ここで考えたいのは、生き残ることと、以前の状態を取り戻すことは同じではないということです。

時行は、失われた鎌倉幕府をそのまま復活させることができたわけではありません。

しかし、北条氏の名前を背負い、再び政治や軍事の世界へ戻ってきました。

その姿を単なる復讐者として描くことはできません。

北条時行は、変化する時代の中で、自らの立場を探し続けた人物だったと考えることもできます。

ただし、それが本人の自覚的な目的だったかどうかは分かりません。

行動から考えられる可能性と、実際に記録された事実を分けておく必要があります。

記録に残らなかった時間

1335年8月から1337年にかけて。

北条時行の足跡には、明らかでない部分が残されています。

諏訪頼重を失った後、誰が保護したのか。

どこで暮らしていたのか。

いつ南朝と接触したのか。

どのような条件で帰順したのか。

これらの問題を、すべて解決できる史料が見つかっているわけではありません。

しかし、分からないからといって、そこに何もなかったわけではありません。

時行は生き延び、再び軍勢に加わっています。

その間には、何らかの生活と人間関係が存在していたはずです。

歴史の記録に名前が残らない人々が、時行の生存を支えていた可能性もあります。

その人々が誰だったのかを知ることは、簡単ではありません。

けれども、時行の行動だけを追うのではなく、その周囲に存在した人々の歴史にも目を向けることが大切だと思います。

三度目の歴史への登場

1333年、北条時行は鎌倉幕府滅亡の戦乱から逃れました。

1335年、諏訪氏に奉じられて挙兵し、鎌倉を奪還しました。

そして同年、再び敗北して姿を消します。

しかし1337年、時行は南朝側の人物として再登場しました。

かつて父の幕府を滅ぼした後醍醐天皇に従い、今度は北畠顕家とともに足利尊氏に対抗するのです。

一人の少年を取り巻く敵と味方は、わずか数年間で大きく変わりました。

それでも時行は、歴史の表舞台へ戻ってきました。

この変化の背景には、時行本人の判断だけでなく、後醍醐天皇や足利尊氏、そして北条氏を支えてきた人々の政治的な事情がありました。

中先代の乱に敗れた少年が、なぜ南朝に加わることになったのか。

その選択は、時行の生涯にどのような意味を持っていたのでしょうか。

次回は「父の敵・後醍醐天皇と手を結んだ理由」。

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇。

鎌倉を奪還した北条時行。

そして、時行を再び鎌倉から追い出した足利尊氏。

敵と味方が複雑に入れ替わる南北朝時代の中で、時行と後醍醐天皇の協力関係がどのように成立したのかを掘り下げていきます。

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