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北条時行とその一族【第5回】

2015.08.28

中先代の乱、少年が鎌倉を奪還した日

滅亡からわずか二年。信濃から現れた軍勢は、なぜ足利氏を破ることができたのか

1335年7月25日。

鎌倉幕府が滅亡してから、わずか二年余り。

北条氏の本拠地だった鎌倉に、一人の少年が戻ってきました。

北条時行。

1333年5月22日、東勝寺で自害した北条高時の息子です。

鎌倉幕府が滅亡したとき、時行は諏訪氏の助けを受けて信濃へ逃れたと伝えられています。

それから約二年。

時行は、諏訪頼重らに奉じられ、再び鎌倉へ進軍しました。

そして、足利直義の軍勢を破り、鎌倉を奪還したのです。

しかし、この出来事には多くの疑問が残ります。

幼い時行を中心とする軍勢が、なぜ短期間で鎌倉まで進むことができたのでしょうか。

なぜ足利方の有力武将たちは、次々と敗れたのでしょうか。

そして、時行を支えた武士たちは、何を取り戻そうとしていたのでしょうか。

今回は、中先代の乱の始まりから鎌倉奪還までを、進軍経路と人々の行動をたどりながら追いかけます。

1333年、鎌倉を失った人々

鎌倉幕府の滅亡は、北条氏だけの問題ではありませんでした。

幕府に仕えていた武士たち。

得宗家に直属する御内人。

鎌倉で政治や軍事に関わっていた人々。

さらに、幕府の支配によって領地や権利を認められていた各地の武士たち。

彼らの生活や立場にも大きな変化が生じました。

新しい建武政権が成立すると、土地の権利や政治的な地位をめぐる調整が始まります。

しかし、すべての人々が新政権に満足していたわけではありません。

幕府の滅亡によって従来の立場を失った人々もいました。

新しい政治のもとで権利を認められた人々もいました。

その一方で、北条氏との関係を維持しようとする武士たちも存在していました。

鎌倉幕府は滅亡しましたが、幕府を支えてきた人間関係まで消滅したわけではなかったのです。

その象徴となったのが、北条時行でした。

北条氏の旧臣が集まった信濃

時行を保護していた諏訪氏は、北条得宗家と深い関係を持つ一族でした。

信濃国には、鎌倉時代から北条氏と関わってきた武士たちが存在していました。

諏訪氏だけではありません。

滋野氏など、北条氏に関係する勢力も活動していました。

しかし、信濃の武士たちがすべて北条氏の再興を望んでいたわけではありません。

建武政権は小笠原貞宗を信濃守護に任じ、新しい支配体制を整えようとしていました。

小笠原氏も、信濃に勢力を持つ有力武士の一族です。

つまり、信濃では新政権を支える勢力と、北条氏に関係の深い勢力が併存していました。

1335年に時行が挙兵する以前から、地域の政治情勢は不安定になっていたのです。

挙兵前から続いていた反乱

1335年3月、信濃では北条氏の旧勢力による反乱が起きていました。

『長野市誌』には、北信濃における反建武政権の動きが記されています。

この動きは、7月の時行挙兵よりも前の出来事です。

ここで重要なのは、中先代の乱を一人の少年が突然起こした反乱として考えないことです。

時行が挙兵する以前から、建武政権に対抗する動きが存在していました。

さらに同年6月には、京都で西園寺公宗による政権転覆計画が発覚します。

西園寺氏は、鎌倉時代に朝廷と幕府を結ぶ役割を担ってきた公家の一族でした。

公宗の計画は、北条氏再興の動きと関連していたと考えられています。

しかし、京都の計画と信濃の挙兵について、すべての連絡や指揮関係が明らかになっているわけではありません。

複数の地域に建武政権への反発が存在していたことと、それらが完全に統一された計画だったことは区別しなければなりません。

それでも、時行の挙兵が孤立した出来事ではなかったことは重要です。

1335年7月14日、諏訪頼重が動く

1335年7月14日。

諏訪頼重とその子・時継らは、北条時行を奉じて信濃で挙兵したとされています。

時行はまだ幼い少年でした。

そのため、軍勢の組織や作戦の立案には、諏訪頼重ら経験豊富な武士たちが中心となって関わったと考えられます。

しかし、ここで疑問が生まれます。

なぜ、時行を軍勢の中心に据える必要があったのでしょうか。

諏訪氏が独自に反乱を起こすことも、理屈の上では可能だったはずです。

それでも、北条高時の息子を奉じたことには大きな意味がありました。

時行は、かつて鎌倉幕府の実権を握った得宗家の生き残りでした。

その名前は、北条氏の旧臣たちを結びつける象徴となり得たのです。

ただし、時行を奉じた武士たちが全員、鎌倉幕府を以前と同じ形で復活させようとしていたとは限りません。

それぞれの立場や期待を分けて考える必要があります。

守護・小笠原貞宗との対立

挙兵した時行軍は、まず信濃で建武政権側の勢力と対立しました。

信濃守護の小笠原貞宗は、新政権の地方統治を担う人物です。

その立場から見れば、北条時行を奉じた軍勢の挙兵は、明らかな反乱でした。

一方、時行軍に加わった武士たちから見れば、小笠原氏は新たに勢力を広げようとする政治的な競争相手でもありました。

信濃では土地や支配権をめぐる問題も存在していました。

時行軍は小笠原方と戦い、関東へ向かう道を開いていきます。

この戦いを単純な北条氏への忠誠だけで説明することはできません。

地域の武士たちにとっては、自らの所領や立場を守るための戦いという側面もあったと考えられます。

中先代の乱は、鎌倉を目指す遠征であると同時に、信濃の政治秩序をめぐる争いでもあったのです。

わずか十日余りの進軍

1335年7月14日に挙兵したとされる時行軍は、7月25日には鎌倉を奪還しました。

わずか十日余りです。

信濃から関東へ進み、足利方の軍勢と何度も戦いながら鎌倉に到達しています。

その行動速度は注目に値します。

ただし、この期間に軍勢の全員が同じ距離を移動したわけではないでしょう。

進軍途中で合流した武士たちもいたと考えられます。

また、信濃各地での戦闘と関東への進軍が、どのように連続していたのかについては、史料を照合する必要があります。

重要なのは、時行軍が短期間で鎌倉方面へ到達し、足利方の迎撃を次々と破ったということです。

では、その軍勢はどの道を通ったのでしょうか。

鎌倉街道上道という道

時行軍の進軍経路を考えるうえで重要なのが、鎌倉街道上道です。

上道は、鎌倉から武蔵国を経て上野・信濃方面へ通じる中世の主要交通路でした。

鎌倉幕府の時代、武士たちの移動や軍事行動にも利用された道です。

その道を、時行軍は鎌倉へ向かって南下しました。

ここには、歴史的に興味深い意味があります。

かつて鎌倉幕府を支える人々が往来した交通路を、今度は幕府再興を掲げた軍勢が進んでいたのです。

しかし、鎌倉街道は現在の舗装道路のような一本の道ではありません。

時代によって経路が変わる場所もあり、複数の道筋が利用されていました。

現在の地図に残る鎌倉街道という名称だけで、1335年の軍勢が通った道を完全に確定することはできません。

地形、古道の遺構、地域の歴史資料を照らし合わせる必要があります。

女影原の戦い

1335年7月22日頃。

時行軍は、現在の埼玉県日高市にあたる女影原で足利方の軍勢と戦いました。

日高市の公式資料にも、この戦いが中先代の乱における重要な戦闘として紹介されています。

足利方には渋川義季らが参加していました。

義季は足利氏と深い親族関係を持つ有力武将でした。

時行軍は女影原で足利方を破りました。

この戦いで足利方は大きな損害を受け、渋川義季らが命を落としたと伝えられています。

ここで注目したいのは、足利方が無抵抗で鎌倉への進軍を許したわけではないという点です。

足利直義は、鎌倉を守るために迎撃軍を派遣していました。

しかし、その軍勢が敗れたのです。

時行軍の進撃は、足利方の予想を超える勢いを持っていた可能性があります。

ただし、足利方がどこまで敵軍の規模や進路を把握していたかは、確かな記録によって検討する必要があります。

小手指原から府中へ

女影原で勝利した時行軍は、さらに南下しました。

次の重要な戦場となったのが、小手指原です。

現在の埼玉県所沢市周辺にあたります。

小手指原は、1333年の新田義貞による鎌倉攻めでも戦場となった地域です。

わずか二年ほどの間に、同じ地域で大きな戦いが繰り返されたのです。

1333年には、鎌倉幕府を倒すために進軍した新田義貞が戦いました。

1335年には、滅亡した幕府の後継者である時行を奉じた軍勢が、同じ鎌倉を目指して戦いました。

歴史の立場が、わずかな期間で逆転していることに気づきます。

時行軍は小手指原でも足利方を破り、さらに武蔵国府のあった府中方面へ進みました。

府中では、小山秀朝らの軍勢と戦ったと伝えられています。

小山氏も関東の有力武士の一族でした。

時行軍は、こうした足利方の軍勢を次々と破っていきました。

足利方はなぜ敗れ続けたのか

女影原。

小手指原。

府中。

時行軍は、関東へ進む途中で足利方の迎撃軍を破りました。

では、なぜ足利方は連続して敗れたのでしょうか。

一つの可能性は、時行軍の進軍が非常に速かったことです。

迎撃する側が十分に兵力を集中できなければ、個別に派遣した軍勢が各地で敗れることがあります。

また、時行軍が進軍途中で協力する武士を増やしていた可能性も考えられます。

一方、足利方の武士たちも、それぞれ異なる地域の勢力でした。

軍勢を集め、連絡を取り、同じ方針で行動するには時間が必要です。

ただし、これらは戦いの結果から考えられる要因であり、当時の指揮官たちの具体的な判断をすべて確認できるわけではありません。

重要なのは、足利方が複数の戦場で敗れた結果、鎌倉への防御線が次第に崩れていったということです。

井出の沢、足利直義との対決

時行軍が鎌倉へ迫ると、足利直義自身が軍勢を率いて迎え撃ちました。

直義は足利尊氏の弟です。

建武政権の成立後、直義は成良親王を奉じ、鎌倉で東国の政治を担っていました。

その直義が、北条時行の軍勢と戦うことになったのです。

戦場となったのは、武蔵国井出の沢。

現在の東京都町田市本町田周辺に比定されています。

井出の沢は、鎌倉街道上道に関わる交通上の重要な場所でした。

ここで直義軍は敗れます。

鎌倉を守るための最後の重要な防御戦が崩れたのです。

直義は鎌倉を維持することができず、東海道を西へ退きました。

この敗北によって、時行軍の鎌倉進入を阻止する大きな軍事的障害が失われました。

鎌倉で起きた、もう一つの悲劇

時行軍が鎌倉へ迫る中で、重大な事件が起こりました。

護良親王の殺害です。

護良親王は後醍醐天皇の皇子であり、鎌倉幕府の倒幕運動でも活躍した人物でした。

しかし、建武政権の成立後、足利氏との対立などによって失脚し、鎌倉に幽閉されていました。

中先代の乱の混乱の中で、護良親王は殺害されます。

『太平記』では、足利直義の命を受けた淵辺義博が殺害したと描かれています。

ただし、具体的な命令関係や殺害の経緯については、軍記物の記述を慎重に扱う必要があります。

ここで重要なのは、時行の反乱が、後醍醐天皇の皇子の運命にも影響を及ぼしたということです。

時行の軍勢が護良親王を直接殺害したわけではありません。

しかし、その進軍が生んだ政治的・軍事的な危機の中で、親王は命を落としました。

歴史上の一つの出来事が、別の人々の運命を大きく変えていく。

中先代の乱は、そのことを示す事件でもあります。

1335年7月25日、鎌倉奪還

足利直義が退いた後、北条時行の軍勢は鎌倉へ入りました。

1335年7月25日。

鎌倉幕府が滅亡してから、わずか二年余り。

北条高時の息子が、再び鎌倉を手にしたのです。

しかし、この出来事を時行個人の軍事的な勝利として描くだけでは不十分です。

実際に軍勢を率いた諏訪頼重らがいました。

信濃で挙兵に加わった武士たちがいました。

関東で合流した勢力も存在しました。

そして、足利方との戦いで命を落とした人々もいました。

時行の鎌倉奪還は、多くの人々の行動が重なった結果だったのです。

少年は鎌倉で何を見たのか

ここで、最も興味深い疑問があります。

時行は、二年ぶりに戻った鎌倉をどのように見たのでしょうか。

父・高時が命を落とした東勝寺。

北条氏が長く政治を動かしてきた鎌倉。

かつて暮らしていた人々の中には、すでに命を失った者もいました。

一方、幕府滅亡後も鎌倉で生活を続けていた人々もいたでしょう。

時行が鎌倉へ戻ったときの心情を、本人の言葉から知ることはできません。

それでも、二年前に追われた少年が、再びその土地へ戻ってきたという事実には大きな意味があります。

時行は鎌倉を取り戻しました。

しかし、そこで何を実現しようとしていたのでしょうか。

北条氏の政治を復活させようとしたのでしょうか。

一族の権利や領地を回復しようとしたのでしょうか。

それとも、新たな政治体制を築こうとしていたのでしょうか。

その具体的な構想については、確かな史料から検討する必要があります。

中先代という不思議な名前

この反乱は「中先代の乱」と呼ばれています。

なぜ「中」なのでしょうか。

鎌倉幕府を支配した北条氏の時代を先代。

その後、鎌倉を支配する足利氏の時代を後代。

そして、その間に一時的に鎌倉を奪還した北条時行の支配を中先代と呼んだことに由来すると説明されています。

つまり、中先代という名前は、後から歴史を振り返ったときの位置づけを表しています。

時行自身が、自分たちを中先代と名乗って挙兵したという意味ではありません。

この名称には、歴史を後世から眺める視点が含まれているのです。

時行と諏訪頼重らにとって、鎌倉奪還は単なる一時的な出来事として計画されたわけではなかったでしょう。

しかし、結果としてその支配は非常に短いものになりました。

鎌倉を奪還しただけで、幕府は復活したのか

時行軍は鎌倉を奪還しました。

しかし、それだけで鎌倉幕府が以前と同じように復活したと考えることはできません。

幕府とは、単なる城や都市の支配だけではありません。

全国の武士たちとの主従関係。

所領の保障。

裁判や行政の仕組み。

政治的な権威。

こうしたものが結びついた統治体制でした。

時行軍が鎌倉でどのような政治的な仕組みを整えようとしたのかは、重要な研究課題です。

時行側が公文所を設けたとする記録もあります。

公文所は、文書の作成や政務に関わる機関です。

この記録は、時行軍が鎌倉を占拠するだけでなく、政治的な秩序を整えようとしていた可能性を示しています。

しかし、その活動がどの程度実現したのかは、短い支配期間を考慮して検討する必要があります。

軍事的な勝利と、政権を安定して運営できることは別の問題だったのです。

京都にいた足利尊氏

時行軍が鎌倉を奪還した頃、足利尊氏は京都にいました。

弟・直義が鎌倉から退き、東国の足利方が危機に直面したという知らせが届きます。

尊氏にとって、鎌倉は重要な土地でした。

足利氏が東国の武士たちと関係を築き、政治的な影響力を維持するうえで欠かせない拠点だったからです。

尊氏は、時行軍を討伐するため東へ向かうことになります。

しかし、ここで新たな問題が生じました。

尊氏は後醍醐天皇の政権に属する武将でした。

そのため、独自の軍事行動を行うことは、朝廷との政治的な関係にも影響します。

尊氏は征夷大将軍などの地位を求めましたが、後醍醐天皇は認めませんでした。

それでも尊氏は東下を進めます。

この行動が、後に尊氏と後醍醐天皇の対立を深めることになります。

つまり、時行の反乱は、鎌倉の支配をめぐる争いにとどまらず、日本の政治全体を揺るがす出来事へと発展していったのです。

鎌倉奪還は、なぜ歴史の転換点になったのか

北条時行は、鎌倉幕府の滅亡後に生き延びた少年でした。

諏訪氏に保護され、1335年に挙兵します。

そして、わずか十日余りの進軍によって鎌倉を奪還しました。

しかし、この勝利は長く続きませんでした。

京都から足利尊氏が東下し、時行軍を迎え撃つことになります。

時行軍は、再び大きな危機に直面しました。

ここで注目したいのは、中先代の乱が後醍醐天皇と足利尊氏の関係を変えるきっかけになったことです。

時行は北条氏の再興を掲げて戦いました。

しかし、その戦いを鎮圧しようとした尊氏が、やがて後醍醐天皇の政権から離反していきます。

歴史の当事者たちが、それぞれ自分たちの目的を実現しようとした結果、別の大きな対立が生まれていったのです。

北条時行を支えた人々の決断

中先代の乱を振り返ると、時行の名前が強く印象に残ります。

しかし、時行の周囲には多くの人々がいました。

諏訪頼重。

その子・時継。

北条得宗家の旧臣たち。

信濃や関東で時行軍に加わった武士たち。

彼らには、それぞれ守るべき領地や家族がありました。

北条氏の名の下に集まったからといって、全員が同じ考えを持っていたとは限りません。

それでも彼らは、鎌倉奪還という一つの目的に向かって行動しました。

その結果、時行軍は鎌倉を取り戻しました。

しかし、ここから先はさらに厳しい戦いが待っていました。

足利尊氏が東下し、時行軍は各地で敗れていきます。

そして諏訪頼重らは、鎌倉で命を落とすことになります。

一方、時行は再び生き延びました。

この結果を知ると、もう一つの疑問が生まれます。

諏訪頼重らは、どこまで時行を守ろうとしていたのでしょうか。

最後の戦いに敗れたとき、なぜ時行だけが生き残ることができたのでしょうか。

次回は「わずか二十日余りの勝利と諏訪一族の悲劇」。

足利尊氏の東下によって、時行軍は何を失ったのでしょうか。

諏訪頼重と時継は、なぜ鎌倉で自害したのでしょうか。

そして、北条時行は誰に守られ、どこへ逃れたのでしょうか。

鎌倉奪還の喜びから一転して訪れた敗北。

その中で起きた出来事を、次回は足利尊氏側の動きも含めて追いかけます。

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