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北畠顕家とその一族【第10回】

2015.08.18

第二次西上、再び戦場へ

霊山を出発した顕家軍は、どこへ向かい、誰と戦ったのか

1337年8月。

北畠顕家は、義良親王を奉じて再び奥州から西へ向かいました。

二度目の大遠征です。

その出発点となったのは、奥州の新たな拠点である霊山でした。

顕家が第一次西上を行った1335年末から、わずか二年足らず。

しかし、その間に政治情勢は大きく変わっていました。

後醍醐天皇は吉野へ移り、足利尊氏は京都を掌握していました。

かつて顕家とともに戦った楠木正成は、湊川の戦いで命を落としています。

新田義貞も北陸方面で戦い続けていました。

顕家の第二次西上は、第一次西上とは異なる状況の中で始まったのです。

霊山から西へ向かう軍勢

顕家の軍勢は霊山を出発し、関東方面へ進みました。

遠征には結城宗広や伊達行朝など、奥州の武士たちが参加していました。

しかし、第一次西上に参加した武士が全員、二度目の遠征にも参加したと考えることはできません。

奥州には足利方の勢力が存在していました。

各地の武士たちは、自らの領地を守りながら軍事行動への協力を求められていました。

どの一族がどれだけの兵を出したのか。

その全体像を正確に復元することは困難です。

それでも、顕家が再び遠征軍を組織できたことは、奥州における協力関係が完全には失われていなかったことを示しています。

進軍経路から見える問題

霊山から関東へ向かうには、奥州南部を通過しなければなりません。

その先には下野、下総、武蔵など、関東の諸地域が広がっています。

しかし、当時の国境は、現代の県境と同じ意味を持つものではありません。

地域ごとに武士団が存在し、土地の支配関係も複雑でした。

ある地域で協力を得られても、隣の地域では足利方の抵抗に遭う可能性があります。

遠征軍が進むには、戦闘だけでなく、情報収集や協力者との連絡も必要でした。

顕家の行動を地図で追うとき、単純に最短距離を進んだと考えることはできません。

敵味方の配置や交通路、軍勢の状況が、進軍方向に影響したと考える必要があります。

関東で迎え撃った足利方

顕家が関東へ進むと、足利方はその進軍を阻止しようとしました。

関東には足利氏の政治的な基盤がありました。

鎌倉幕府が滅亡した後も、鎌倉は東国の重要な政治・軍事拠点であり続けていました。

足利尊氏の子・義詮(よしあきら)も鎌倉に置かれていました。

その後見や軍事的な支援を担った人物の一人が斯波家長でした。

家長は奥州における足利方の活動にも関わっていました。

つまり、顕家が鎌倉を目指すことは、東国における足利方の拠点を攻撃することでもあったのです。

京都を奪還する前に、背後や進路上に存在する足利方の勢力と戦わなければなりませんでした。

鎌倉攻略と斯波家長の最期

1337年12月、顕家の軍勢は関東で足利方と戦い、鎌倉を攻略しました。

この戦いで、斯波家長は鎌倉の杉本城で戦死したと伝えられています。

足利義詮は鎌倉から退きました。

顕家軍にとって、鎌倉攻略は大きな軍事的成果でした。

しかし、ここで考えたいことがあります。

鎌倉を攻略することが、顕家の最終目的だったのでしょうか。

答えは違います。

顕家の目的は、後醍醐天皇を支えるため、京都方面の足利勢力に対抗することでした。

鎌倉は、その長い遠征の途中にある重要な拠点だったのです。

一方、足利方にとっては、鎌倉の喪失は東国の政治的な基盤に関わる重大な出来事でした。

同じ戦いでも、双方の立場によって持つ意味は異なります。

北条時行という意外な協力者

第二次西上では、北条時行(ほうじょう ときゆき)の存在も重要です。

時行は鎌倉幕府最後の執権・北条高時の子でした。

1333年の鎌倉幕府滅亡によって、北条氏は政治的な支配権を失いました。

しかし、時行は1335年に中先代の乱を起こし、鎌倉を一時的に奪還しています。

その反乱を鎮圧したのが足利尊氏でした。

その後、時行は尊氏に対抗するため、後醍醐天皇側に加わります。

顕家の第二次西上にも協力したと伝えられています。

ここに南北朝時代の複雑さがあります。

北条氏は、かつて後醍醐天皇が倒そうとした鎌倉幕府の中心でした。

その北条氏の生き残りが、今度は後醍醐天皇側の軍勢に加わり、足利尊氏と戦っているのです。

過去の敵が、現在の協力者となる。

政治的な立場は、時代の変化によって組み替えられていました。

北条時行は何を目指していたのか

時行が顕家と協力した背景には、尊氏との対立がありました。

しかし、両者が同じ政治的な理想を持っていたと考える必要はありません。

顕家は後醍醐天皇の政権を支える立場でした。

時行は、かつて鎌倉幕府を率いた北条氏の生き残りです。

両者は異なる歴史を背負っていました。

それでも、足利尊氏に対抗するという目的において利害が一致しました。

このような協力関係は、戦乱の時代における政治的な判断の一つです。

ただし、時行が顕家の遠征軍の中でどの程度の兵力を率い、どのような発言力を持っていたのかは、さらに検討が必要です。

同じ軍勢に参加していたという事実だけで、指揮官同士が完全に信頼し合っていたと断定することはできません。

鎌倉で終わらなかった戦い

1337年末、顕家軍は鎌倉を攻略しました。

しかし、京都を奪還するには、さらに西へ向かわなければなりません。

鎌倉から京都までには、まだ長い距離がありました。

その先には、足利方の軍勢が待ち受けていました。

顕家は鎌倉で軍勢を整えた後、1338年初めに再び西へ進みます。

ここで顕家軍が直面したのは、長距離遠征による疲労と、足利方の反撃でした。

ただし、具体的にどの部隊がどの程度疲弊していたのかを、数値として示すことはできません。

重要なのは、奥州から鎌倉まで進軍し、さらに戦闘を重ねた軍勢が、そのまま京都方面へ向かおうとしていたということです。

戦いに勝っても、失った兵や馬がすぐに戻るわけではありません。

次の戦いに備えるためには、人員や物資を補充する必要があります。

鎌倉を手にしたことは勝利だったのか

顕家は鎌倉を攻略しました。

しかし、鎌倉を占領し続けることが最終目的ではありませんでした。

足利方は関東でも勢力を維持しており、顕家軍が西へ進めば、その背後の情勢が再び変化する可能性がありました。

顕家は、鎌倉を長期的に統治するためではなく、京都へ向かうために進軍を続けたと考えられます。

この判断には、戦略的な難しさがありました。

東国の拠点を確保し続けようとすれば、そこに兵力を割かなければなりません。

一方、京都奪還を急ぐなら、軍勢を西へ集中させる必要があります。

両方を同時に実現するだけの兵力や補給能力があったのか。

これも検討すべき問題です。

顕家の軍勢は何を抱えて西へ向かったのか

第二次西上の軍勢には、奥州から参加した武士たちだけでなく、関東で合流した勢力もありました。

彼らの出自や政治的な目的は一様ではありません。

同じ足利尊氏と戦う立場であっても、戦後に何を実現したいのかは異なっていた可能性があります。

また、長距離遠征による負担も積み重なっていました。

京都を奪還できれば、後醍醐天皇側の政治情勢は大きく変化するかもしれません。

しかし、敗れれば遠征軍だけでなく、奥州に残された人々にも影響が及びます。

顕家は、そうした軍勢を率いて西へ進みました。

そして1338年、現在の岐阜県西部にあたる美濃国で、大きな戦いを迎えることになります。

次回は「青野原の戦いと京都への道」。

顕家軍は青野原で足利方と戦い、軍事的な成果を挙げたと伝えられています。

それにもかかわらず、なぜ京都へ進むことができなかったのでしょうか。

勝利したはずの遠征軍が迎えた転換点を追います。

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