北畠顕家とその一族【第5回】
奥州を支えた武士たち
結城宗広・伊達行朝・南部師行、それぞれが守ろうとしたもの
1333年、16歳の北畠顕家が奥州へ下向しました。
後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じ、父・北畠親房とともに多賀城を拠点とする新しい統治体制を築くためでした。
しかし、京都から来た若い公卿が、奥州の広大な土地を一人で治められるはずはありません。
そこには、長い年月をかけて地域に根を下ろしてきた武士たちがいました。
白河の結城氏。
伊達郡を本拠とする伊達氏。
糠部地方に勢力を持つ南部氏。
彼らには、それぞれの歴史があり、守るべき領地があり、家族や家臣がいました。
そして、鎌倉幕府の滅亡によって、それまでの政治的な秩序が大きく変わろうとしていました。
新しい朝廷の政治に協力するのか。
従来の立場を守るのか。
あるいは、情勢を見極めながら一族の進む道を選ぶのか。
それぞれの武士たちは、難しい判断を迫られていました。
なぜ彼らは北畠顕家と行動をともにしたのでしょうか。
そして、その選択は一族の運命をどのように変えたのでしょうか。
今回は、顕家を支えた奥州の武士たちの立場から、南北朝時代の始まりを見ていきます。
奥州の武士たちは、もともと誰に仕えていたのか
奥州の武士たちの歴史を考えるには、さらに時代をさかのぼる必要があります。
1189年、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしました。
それまで平泉を中心に奥州で大きな勢力を築いていた藤原氏の支配が終わり、鎌倉幕府による新しい秩序が広がっていきます。
頼朝は奥州合戦に参加した御家人たちに所領を与え、各地の支配体制を整えていきました。
その結果、関東から奥州へ進出した武士たちもいました。
一方、以前から奥州に暮らしていた人々や、その土地に根づいた武士団も存在していました。
つまり、14世紀の奥州は、一つの勢力によって単純に支配されていた地域ではありません。
鎌倉幕府の成立以来、約140年にわたり、さまざまな武士たちが土地を守り、勢力を広げ、ときには争いながら生活してきた地域でした。
1333年に鎌倉幕府が滅亡しても、そうした人間関係が消えるわけではありません。
むしろ、それまで幕府の権威によって維持されていた秩序が変化することで、新たな対立が生まれる可能性もありました。
後醍醐天皇が北畠顕家を奥州へ派遣したとき、顕家が向き合わなければならなかったのは、このような複雑な社会だったのです。
白河結城氏は、なぜ奥州にいたのか
結城宗広(ゆうき むねひろ)。
北畠顕家を支えた武士たちの中でも、特に重要な人物です。
宗広が属する白河結城氏の歴史は、鎌倉幕府の成立期にまでさかのぼります。
結城氏の祖は、小山政光の子である結城朝光とされています。
朝光は源頼朝に仕え、下総国結城の地を与えられました。
その後、結城氏の一族は各地へ広がります。
鎌倉時代後期、結城祐広が陸奥国白河へ移り、白河結城氏の祖となりました。
その子が結城宗広です。
宗広にとって白河は、単に命令によって赴任した土地ではありません。
一族が新たな基盤を築き、将来を託した土地でした。
そこには領地があり、家臣がおり、周辺の武士たちとの関係がありました。
一族の存続を考えるなら、白河における立場を守ることは重要だったはずです。
そして、鎌倉幕府の滅亡という大きな転機が訪れます。
宗広は幕府打倒に参加し、後醍醐天皇の新政権を支える側に立ちました。
その結果、北畠顕家の奥州統治においても、重要な協力者となっていきます。
結城宗広が選んだ道
結城宗広を考えるとき、注目したいのは、その行動が1333年の政治的な選択だけで終わらなかったことです。
建武の新政が始まった後、足利尊氏と後醍醐天皇の対立が激しくなります。
宗広は、その戦乱の中でも顕家を支える立場で活動しました。
1335年末、顕家は義良親王を奉じ、奥州から西上を開始します。
宗広もこの遠征に参加した武将の一人でした。
奥州南部の白河を本拠とする宗広にとって、西への遠征は、京都の政権を支える軍事行動であると同時に、自らの勢力圏を離れる決断でもありました。
遠征に参加すれば、その間の領地を誰が守るのかという問題が生じます。
家臣を率いて出陣するには、人員や物資の準備も必要になります。
そして、戦いに敗れれば、一族の将来にも影響が及びます。
宗広がどのような心境で遠征に加わったのか、本人の言葉から詳しく知ることは困難です。
しかし、実際に顕家と行動をともにしたことは、史料から確認できます。
さらに重要なのは、宗広の死後も、結城一族の政治的な選択が続いたことです。
宗広は1338年、伊勢で亡くなりました。
一方、息子の結城親朝は、その後も東国の南朝方として活動します。
しかし、やがて南朝側の勢力が衰える中で、足利尊氏側へ転じることになります。
父と息子は、最終的に異なる政治的選択をしたのです。
ここには、忠義という言葉だけでは説明できない、一族の歴史があります。
宗広が生涯をかけて支えた側から、親朝はなぜ離れることになったのでしょうか。
父の意志を受け継ぐことと、領地や家臣を守ることが両立しなくなったとき、人は何を選ぶのでしょうか。
この問題は、後に北畠親房と結城親朝の関係を追う際にも重要になります。
伊達行朝と、伊達氏の政治的な立場
次に注目したいのが、伊達行朝(だて ゆきとも)です。
伊達氏という名前から、戦国時代の伊達政宗を思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、伊達氏の歴史は政宗よりはるか以前に始まっています。
伊達氏は、鎌倉時代初期から陸奥国伊達郡を中心に勢力を築いてきた武士の一族です。
南北朝時代の伊達氏にとっても、領地の維持と拡大、そして周辺勢力との関係は重要な問題でした。
伊達行朝は、建武政権の成立後、北畠顕家を支える武士として活動しました。
その存在を考えるうえで、注目したい史料があります。
仙台市博物館に所蔵されている、1334年9月10日付の「北畠顕家下文」です。
この文書は、顕家が伊達氏の一族である孫五郎政長に対して、伊達郡内の没収地を与えるよう命じたものです。
行朝本人に宛てた文書ではありませんが、北畠顕家の政治と伊達一族の関係を考えるうえで、重要な手がかりになります。
一通の命令書が変える人々の運命
顕家が発給した1334年の文書には、具体的な土地の処分が記されています。
新しい政権が成立すると、幕府打倒に貢献した武士たちへの恩賞が問題になります。
恩賞として土地を与える場合、どの土地を誰に与えるのかを決めなければなりません。
しかし、土地には、それまで権利を持っていた人々がいます。
一方に新しい権利を与えるという判断は、別の誰かが権利を失うことにもつながります。
顕家の命令によって恩賞を得た伊達氏の一族にとって、それは新政権への協力が具体的な利益につながったことを示す出来事でした。
しかし、没収される側から見れば、まったく異なる意味を持っていたでしょう。
ここに、政治の難しさがあります。
新しい秩序を築くということは、単に新しい法律や制度をつくることではありません。
人々の持つ権利や利害を調整することでもあります。
そして、その判断に納得する人ばかりとは限りません。
16歳で奥州へ下った顕家は、こうした現実の政治に関わっていました。
武士たちとの関係は、戦場における主従関係だけで成立していたわけではないのです。
南部師行と、奥州北部の情勢
もう一人、忘れてはならない人物がいます。
南部師行(なんぶ もろゆき)です。
南部氏も鎌倉時代以来の歴史を持つ武士の一族でした。
その出自は甲斐源氏の流れにあり、鎌倉時代から北東北の糠部地方などとの関係を深めていきました。
師行は、建武政権の成立後、奥州で北畠顕家を支えた有力武士の一人です。
しかし、南部氏の歴史には、結城氏や伊達氏とは異なる特徴があります。
奥州北部は多賀城から遠く離れ、津軽や糠部など、地域ごとに複雑な勢力関係が存在していました。
新政権に従う武士もいれば、反対する勢力もいました。
同じ南部氏の一族であっても、すべてが同じ政治的立場にあったわけではありません。
師行たちは、こうした情勢の中で新政権側の支配を確立しようとしました。
青森県七戸町の町史には、顕家の命令を受けた師行らの活動が記されています。
1335年、足利尊氏と建武政権の対立が深まると、顕家は師行に対して現地の情勢に対応するよう指示しました。
師行が担っていたのは、単なる戦闘指揮だけではありません。
地域の武士をまとめ、反対勢力に対処し、奥州北部の秩序を維持する役割でもありました。
遠征する者と、奥州に残る者
1335年末、北畠顕家は第一次西上を開始します。
このとき奥州の武士たち全員が、多賀城を離れて京都方面へ向かったわけではありません。
七戸町史によると、南部師行は多賀城に残り、留守を守る役割を担いました。
一方、師行の孫である南部信政は、顕家の遠征軍に加わったとされています。
これは非常に重要な点です。
顕家の遠征を支えた人々は、戦場へ向かった者だけではありませんでした。
奥州に残って統治拠点を守る者。
反対勢力の動きを警戒する者。
現地の軍事力を維持する者。
そうした人々がいなければ、遠征軍は安心して西へ向かうことができなかったはずです。
また、一族の中で複数の役割を分担することには、現実的な意味がありました。
当主が出陣すれば領地が手薄になる可能性があります。
反対に、一族全員が本拠地に残れば、新政権への軍事的な協力を十分に果たせません。
誰が出陣し、誰が残るのか。
この判断もまた、一族の将来を左右する重要な政治的選択でした。
顕家は奥州の武士たちをどうまとめたのか
ここまで、結城宗広、伊達行朝、南部師行という三人の武士を見てきました。
三人は同じ奥州の武士でありながら、置かれていた地域も、一族の歴史も異なっていました。
白河結城氏は奥州南部に勢力を築いていました。
伊達氏は伊達郡を中心に領地を広げていました。
南部氏は奥州北部の複雑な政治情勢に深く関わっていました。
それぞれが、異なる地域の事情を抱えていたのです。
北畠顕家は、こうした武士たちの協力を得ながら奥州の統治を進めました。
では、顕家は何をもって彼らをまとめたのでしょうか。
後醍醐天皇の権威だったのでしょうか。
土地の権利を保障する政治的な判断だったのでしょうか。
それとも、顕家自身への信頼があったのでしょうか。
これらの可能性を一つに決めることはできません。
武士によって、協力する理由は異なっていた可能性があります。
また、同じ人物であっても、情勢が変われば判断の理由も変化したでしょう。
重要なのは、顕家が単に命令するだけの立場ではなかったということです。
奥州の統治を維持するには、地域の実情を知る人々の協力が不可欠でした。
若い顕家は、異なる利害を持つ人々とともに政治を進めなければならなかったのです。
史料に残された武士たちの姿
奥州の武士たちを知るための重要な史料として、「白河結城家文書」があります。
白河結城氏に伝来した古文書群で、その一部は国の重要文化財に指定されています。
これらの文書には、土地の権利や政治的な命令、武士たちの行動を知るための記録が残されています。
特に1333年から1343年頃までの文書は、南北朝時代初期の奥州や関東の政治情勢を考えるうえで重要です。
そして、そこには北畠親房や北畠顕信が関わる文書も残されています。
顕家が戦死した後も、北畠一族と結城氏の関係は続いていたのです。
このことは、北畠顕家の歴史を考えるうえで見逃せません。
顕家と奥州の武士たちとの関係は、一人の若い指揮官が亡くなれば、すべて終わるというものではありませんでした。
しかし、その後の関係が変化していったことも、史料から確認できます。
結城宗広の死後、息子の親朝は父と同じ道を歩み続けたわけではありません。
一族の存続をめぐる現実的な判断は、南北朝の戦乱が長引くほど難しくなっていきました。
顕家とともに戦った人々にも人生があった
歴史を振り返るとき、私たちはどうしても有名な人物の名前を中心に考えてしまいます。
北畠顕家。
足利尊氏。
新田義貞。
楠木正成。
しかし、実際に戦乱の時代を生きていたのは、彼らだけではありません。
結城宗広には白河で守るべき一族がありました。
伊達行朝には伊達氏の領地と将来がありました。
南部師行には奥州北部で果たさなければならない役割がありました。
さらに、その周囲には家臣や兵士、土地を耕す人々がいました。
大軍が遠征すれば、兵士たちは故郷を離れることになります。
戦いが長引けば、領地に残された人々の生活にも影響が及んだでしょう。
兵を失えば、その家族にも大きな負担が生じます。
遠征を支えることは、戦場で勝つことだけではなかったのです。
ただし、こうした人々が具体的にどのような感情を抱いていたのかを、残された史料から直接知ることは困難です。
それでも、政治的な決断の先には、多くの人々の暮らしがあったことを忘れてはならないでしょう。
一族を守ることと、信じた道を進むこと
結城宗広は、顕家とともに戦い、1338年に亡くなりました。
その息子・親朝は、やがて足利方へと転じます。
南部師行も、奥州での統治や軍事に深く関わり、後に顕家の最期につながる戦いで命を落とすことになります。
彼らの行動を、後世の私たちは忠臣と裏切り者、勝者と敗者という言葉で分類してしまうことがあります。
しかし、そうした分類だけでは見えてこないものがあります。
一族の将来を守ろうとする判断。
それまで築いてきた関係を守ろうとする判断。
政治的な信念を貫こうとする判断。
そして、現実の情勢が変化したことで、以前とは異なる選択を迫られること。
武士たちは、それぞれの事情の中で決断していました。
北畠顕家自身もまた、そうした人々の力によって政治と軍事を支えられていたのです。
奥州の結束は、どこまで続いたのか
1335年、足利尊氏が後醍醐天皇の政権から離反します。
この出来事は、奥州にも大きな影響を及ぼしました。
顕家が築いてきた統治体制は、政治的な安定を目指す段階から、本格的な戦乱に対応する段階へと変わっていきます。
奥州の武士たちも、新たな判断を迫られることになりました。
顕家を支え続けるのか。
足利方へ転じるのか。
あるいは、地域の情勢に応じて別の道を選ぶのか。
そして顕家は、足利尊氏と戦うため、奥州から京都方面への大遠征を決断します。
その遠征には結城宗広や伊達行朝らが加わりました。
一方で、南部師行のように奥州の守備を担う人物もいました。
奥州の政治を支えてきた協力関係は、ここから大きな試練を迎えることになります。
遠征軍を送り出した後、奥州では何が起きたのでしょうか。
顕家が不在の間、誰が統治を維持したのでしょうか。
そして、足利方の勢力が奥州にも広がる中で、武士たちの関係はどのように変わっていったのでしょうか。
次回は「多賀城から霊山へ」。
1333年に多賀城を中心として始まった奥州統治が、やがて霊山へと拠点を移さなければならなくなるまでの経緯を追います。
その過程には、北畠顕家の第一次西上と帰還、そして奥州における足利方との対立が深く関わっていました。
一度は成立した新しい政治体制が、なぜ揺らぎ始めたのか。
次回は、その変化を奥州に残された人々の視点から考えていきます。