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新田義貞の一族は、本当に滅びたのか。足利氏に従った血筋、戦国大名となった子孫、そして700年後に残された謎【4】

2015.08.04

里見氏と後北条氏。かつての源氏一族の争いとは違う戦国時代

房総里見氏の歴史には、後北条氏との長い対立があります。

後北条氏は小田原を拠点として関東に勢力を広げた戦国大名です。

鎌倉幕府の執権だった北条氏と同じ名字を持ちますが、直接その本家を継承した一族ではありません。

戦国時代、里見氏と後北条氏は、上総国の支配や東京湾の交通をめぐって争いました。

その争いには、海上交通や沿岸の城も大きく関わりました。

里見氏は、自分たちの領国を守りながら、周辺の大名との関係を調整しなければなりませんでした。

ここで、歴史の長い流れが見えてきます。

新田義貞が生きた南北朝時代には、後醍醐天皇と足利尊氏を中心に政治的な秩序が揺れていました。

しかし、戦国時代には、地域を支配する大名たちがそれぞれの領国を維持しようとしていました。

新田氏に連なるとされる里見氏も、その変化に対応して活動しています。

先祖が誰だったのかという問題は、家の由緒として大切にされました。

しかし、実際の政治や戦争では、目の前の敵や味方、土地の条件に対応する必要がありました。

家の歴史を受け継ぐことと、昔と同じ生き方をすることは、必ずしも同じではなかったのです。

江戸時代、里見氏はどこへ行ったのか

戦国時代を生き抜いた房総里見氏は、豊臣政権から徳川政権へと時代が変わる中でも大名として存続しました。

しかし、江戸時代に入ってから、その立場は大きく変わります。

1614年、里見忠義は伯耆国倉吉へ移されました。

安房国を中心とした里見氏の領国支配は、ここで終わります。

忠義は1622年に亡くなりました。

その後、房総里見氏の大名としての歴史は終わることになります。

ここで、約三百年前の新田義貞の時代を思い出します。

新田義貞は足利氏との戦いに敗れ、政治的な中心から姿を消しました。

その一族に連なる里見氏は、長い年月を経て戦国大名となりました。

しかし、里見氏もまた、江戸時代には大名としての地位を失いました。

時代が変われば、かつての有力な家も、そのまま同じ立場を保てるわけではありません。

その一方で、里見氏の歴史も完全に忘れられたわけではありませんでした。

江戸時代には、里見氏を題材とする新しい物語が生まれることになります。

『南総里見八犬伝』。歴史上の里見氏と、物語の里見氏

江戸時代後期。

曲亭馬琴は『南総里見八犬伝』という長編の物語を書きました。

1814年から刊行が始まり、長い年月をかけて完成した作品です。

この物語には、安房里見氏を背景に、八人の犬士たちが登場します。

信義や友情、運命、家族のつながりを描く壮大な作品として、現在まで広く知られています。

しかし、『南総里見八犬伝』は歴史書ではありません。

里見氏の歴史から着想を得ていますが、物語には多くの創作が含まれています。

そのため、八犬士の行動や物語上の出来事を、そのまま戦国時代の史実として扱うことはできません。

それでも、この作品には興味深い意味があります。

政治的な権力を失った後も、里見氏の名前が人々の想像力を刺激し、新しい物語の中で生き続けたことです。

これは、新田義興が死後に神として祀られ、後に平賀源内の浄瑠璃の題材となったことにも通じます。

歴史上の人物や一族は、戦争や政治の世界から姿を消した後も、文化や信仰の中で新しい意味を持つ場合があります。

ただし、物語として長く親しまれたことと、歴史上の出来事が正確に伝えられていることは別です。

歴史と創作を区別した上で、それぞれを大切にしたいと思います。

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