新田義宗はどこへ消えたのか。二つの墓、異なる最期の伝承と、新田一族に残された謎【3】
1358年、兄・義興が多摩川で命を落とす
1358年。
足利尊氏が亡くなりました。
室町幕府を築いた人物の死は、当時の政治情勢に大きな影響を与えました。
新田義興も、この年に再び関東で活動します。
しかし、10月10日。
義興は武蔵国矢口の渡しで、計略にかかって命を落としたと伝えられています。
父の義貞は藤島で戦死しました。
兄の義顕は金ヶ崎城で命を落としました。
そして義興も、多摩川で命を落としたのです。
義宗にとって、同じ父を持つ兄たちが相次いで失われたことになります。
義興の死を義宗がどこで知ったのかは分かりません。
その知らせを聞いたとき、何を語ったのかも分かりません。
しかし、その後も義宗の名前は、新田一族の活動を伝える記録や伝承に現れます。
そして十年後。
新田義宗の生涯をめぐる、最も大きな謎が始まります。
1368年。新田義宗は本当に最後の挙兵をしたのか
1368年。
足利氏を取り巻く情勢には、再び変化が起きていました。
前年の1367年には、関東で重要な役割を担っていた足利基氏が亡くなっています。
さらに同じ1367年、二代将軍の足利義詮も亡くなりました。
室町幕府と関東の政治的な中心人物が、相次いでこの世を去ったのです。
このような時期に、新田義宗と脇屋義治が越後・上野国境付近で挙兵したと伝えられています。
江戸時代に編纂された『喜連川判鑑』などには、この戦いの経過が記されています。
関東管領の上杉憲顕は、義宗らの動きを抑えるため、息子たちを向かわせたとされています。
そして義宗は戦いに敗れ、命を落としたというのです。
しかし、ここには重要な問題があります。
1368年の義宗の挙兵については、同時代の軍忠状などから具体的な戦闘経過を十分に確認できていません。
また、義宗の死を1369年とする伝承もあります。
つまり、後世に伝えられた戦いの記録と、当時の武士たちの行動を示す文書が、必ずしも一致していないのです。
義宗が実際に挙兵したとしても、その規模はどの程度だったのでしょうか。
本格的な合戦が起こったのでしょうか。
それとも、軍勢を集める途中で動きを察知され、戦う前に勢力を失ったのでしょうか。
その答えは、簡単には出せません。
上野国沼田。山々に残る「うつぶしの森」
現在の群馬県沼田市白沢町高平。
ここには「うつぶしの森」と呼ばれる史跡があります。
沼田市の指定史跡であり、新田義宗が最期を迎えた場所と伝えられています。
その伝承によれば、義宗はこの付近で足利方の大軍と戦いました。
しかし、敵の放った矢が右目に当たり、義宗はうつ伏せに落馬して命を落としたというのです。
その最期に由来して、この場所は「うつぶしの森」と呼ばれるようになったと伝えられています。
この話には、非常に具体的な描写があります。
右目に矢を受けたこと。
馬から落ちたこと。
うつ伏せになって倒れたこと。
しかし、詳しく語られているからといって、そのすべてが史実と確認できるわけではありません。
伝承がいつごろ成立し、どのように語り継がれたのかを検討する必要があります。
また、現在の森の位置が、義宗が倒れた正確な場所と一致することも、別の問題です。
それでも、地域の人々がこの場所を新田義宗の最期と結びつけ、長く伝えてきたことには意味があります。
なぜ、この土地に義宗の伝承が残ったのでしょうか。
実際に新田方の軍事活動があったことを伝えているのでしょうか。
それとも、別の出来事が義宗の物語と結びついたのでしょうか。
その点にも、まだ考える余地があります。