新田義貞、越前への決断。後醍醐天皇と別れ、二人の皇子を守って北国へ向かった理由【5】
父・義貞と、息子・義顕
金ヶ崎城をめぐる戦いでは、新田義貞の嫡男・義顕も重要な役割を担いました。
義顕は父とともに越前へ向かい、金ヶ崎城の防衛に加わっていました。
義貞にとって、義顕は将来の新田一族を担う存在でもあったはずです。
かつて義貞自身も、新田氏の当主として一族を率いる立場になりました。
そこから鎌倉幕府の滅亡という大きな出来事に関わり、建武政権を支える武将となります。
しかし、わずか数年で情勢は一変しました。
今度は父と息子が、敵に包囲された城で戦うことになったのです。
義貞が息子にどのような言葉をかけたのか。
義顕が父に何を語ったのか。
その具体的な会話を確かめることはできません。
ただ、義貞が金ヶ崎城を離れて援軍を求め、義顕が城に残ることになった事実は、この親子の運命を考える上で重要です。
城に残る側にも危険があります。
外へ出て援軍を集める側にも危険があります。
どちらが安全というわけではありません。
軍勢を率いる者にとって、時には家族と別々の場所で戦う判断が必要になることもあったのでしょう。
その選択が、後に大きな悲劇につながっていきます。
新田義貞は、なぜ金ヶ崎城を離れたのか
金ヶ崎城の包囲が長引く中、義貞は城を離れ、杣山方面へ向かいました。
その目的は、周辺の勢力と連携し、軍勢を立て直すことにあったと考えられます。
ここで、義貞が城を捨てて逃げたとだけ見るのは、戦いの実態を捉えた説明とは言えません。
包囲された城に全員がとどまれば、城が落ちたときに軍勢も指導者も失われます。
一方、城外で新たな戦力を集めることができれば、包囲を解く可能性も生まれます。
ただし、義貞が脱出した具体的な時期や、そのときの軍事的な判断については、史料によって慎重な検討が必要です。
義貞が城を離れた後も、金ヶ崎城には二人の皇子と新田義顕らが残りました。
そして1337年3月、金ヶ崎城は落城します。
尊良親王と新田義顕は、この戦いで命を落としました。
恒良親王は捕らえられ、京都へ送られたとされています。
後醍醐天皇から託された皇子たちと、義貞自身の息子。
その人々を失ったことは、義貞にとっても、後醍醐天皇方の勢力にとっても、極めて大きな出来事でした。
しかし、義貞自身は生き残り、越前で戦いを続けます。
金ヶ崎城が落ちても、戦いは終わらなかった
金ヶ崎城の落城は、新田義貞たちにとって深刻な敗北でした。
重要な拠点を失い、皇子たちを失い、一族の将来を担う息子も失いました。
それでも、越前における抵抗がすべて終わったわけではありません。
義貞は弟の脇屋義助らとともに、各地の武士たちとの関係を保ちながら反撃を目指します。
1338年には、越前国府を攻略するなど、再び勢力を拡大する動きを見せました。
敗北した軍勢が再び戦えるようになるには、武器や兵を集めるだけでは足りません。
一度敗れた人物を、もう一度信じて支えようとする人々が必要です。
新田義貞に従った武士たちは、必ずしも勝利が約束されているから集まったわけではなかったでしょう。
一族の関係。
これまでの戦いで築いた信頼。
土地を守るための判断。
それぞれの事情が重なり、再び人々が義貞のもとへ集まりました。
義貞の歩みを振り返ると、鎌倉幕府を滅ぼしたときの勢いだけが、この人物のすべてではないことに気づきます。
敗北し、仲間を失い、家族を失っても、なお戦い続けた時期がありました。
そして、その時期の義貞を支えた人々にも、それぞれの人生があったのです。