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新田義貞と湊川の戦い。楠木正成はなぜ命を落とし、足利尊氏は再び立ち上がれたのか【3】

2015.06.06

楠木正成が見ていた戦いの難しさ

足利軍が畿内へ近づくと、後醍醐天皇方は迎撃の準備を進めました。

新田義貞に加え、楠木正成も出陣することになります。

楠木正成は、河内国を本拠とし、千早城などで幕府軍を苦しめた経験を持つ武将です。

その戦い方は、単純に大軍と正面からぶつかるものではありませんでした。

城や山の地形を利用し、敵の動きを見ながら持久戦を展開する。

自分たちの兵力だけでなく、地形と時間を戦いに取り込む。

正成は、そうした戦いを経験してきました。

『太平記』には、正成が大軍との野戦を避け、いったん京都を離れて比叡山などを利用しながら戦うよう進言したとする話が記されています。

しかし、その提案は採用されず、正成は兵庫方面へ出陣したと描かれています。

この逸話は、後世の楠木正成像を考える上でも重要です。

ただし、軍記物語に記された会議の発言を、一言一句そのまま事実として扱うことはできません。

実際にどのような協議が行われ、誰が何を主張したのかについては慎重に考える必要があります。

それでも、戦場の地形や兵力の違いを考えると、正成たちが直面した軍事上の問題は明らかです。

足利軍は海と陸から迫っています。

新田軍と楠木軍は、その両方に対応しなければなりません。

戦いの場所をどこにするのか。

軍勢をどのように配置するのか。

敵の上陸を防げるのか。

京都への退路を確保できるのか。

それらは、戦いの結果を左右する重要な問題でした。

湊川という戦場。地形が語るもの

現在の神戸市は、北に六甲山系が連なり、南に大阪湾が広がる都市です。

山と海の間には、東西に延びる交通路があります。

古くから兵庫津周辺は、海上交通と陸上交通が結びつく重要な場所でした。

中世の湊川周辺は、現在とは河川の流路や海岸線の様子が異なります。

そのため、現代の地図だけを使って1336年の戦場を完全に再現することはできません。

しかし、北側に山地があり、南側が海に面しているという基本的な地形は、当時の軍勢の動きを考える上でも重要です。

新田義貞は和田岬方面に軍勢を配置しました。

楠木正成は湊川周辺、会下山付近に布陣したと伝えられています。

海から進んでくる足利尊氏の軍勢を警戒しながら、陸路から迫る足利直義らにも対応しなければなりません。

さらに、東へ進めば京都があります。

もし足利軍の一部が新田軍の背後へ回り込めば、京都への道が脅かされます。

つまり、湊川の戦いは、単純に正面にいる敵と戦うだけでは済まない戦場だったのです。

1336年5月25日。湊川で両軍が激突する

5月25日。

足利軍と新田・楠木軍の戦いが始まりました。

足利尊氏の主力が和田岬方面から攻撃を仕掛ける一方、細川氏らの軍勢は東方の生田方面へ進みました。

新田義貞にとって、東側へ進出する足利勢の存在は重大でした。

そのままでは京都方面への連絡や退路が脅かされる可能性があります。

義貞の軍勢は東へ移動し、やがて京都方面へ撤退します。

一方、楠木正成の軍勢は、湊川付近で足利軍との戦いを続けていました。

両軍の位置関係が変わったことで、楠木軍は孤立した状態に追い込まれていきます。

軍記物語には、正成が少数の兵で何度も敵軍に攻撃を加えた様子が描かれています。

ただし、戦闘回数や兵力、最後まで残った人数については、軍記特有の表現や後世の伝承を考慮する必要があります。

この戦いで楠木軍が敗れ、正成が命を落としたことは確かです。

一方で、新田義貞は生き残り、京都方面へ退きました。

ここで、義貞が正成を見捨てたと単純に考えることはできません。

義貞には、後醍醐天皇の政権を守るという役割がありました。

自分の軍勢が包囲されれば、京都へ戻って戦いを続ける力そのものを失うおそれがあります。

楠木軍を救援することが可能だったのか。

義貞は、正成が置かれている状況をどこまで把握していたのか。

撤退以外に現実的な選択肢があったのか。

これらの点については、後世から結果だけを見て判断するのではなく、当時の軍勢の配置と行動を検討する必要があります。

楠木正成が最期まで守ろうとしたもの

楠木正成は、湊川の戦いで弟の正季らとともに命を落としました。

『太平記』には、最期を迎える正成と正季が、再び生まれて朝敵を滅ぼすことを願ったという有名な場面があります。

いわゆる「七生報国」の思想につながる逸話です。

ただし、この場面も軍記物語の記述であり、実際に交わされた会話を確認できるわけではありません。

正成は、なぜ不利な状況でも戦い続けたのでしょうか。

後醍醐天皇への忠義。

共に戦ってきた家臣たちへの責任。

新しい政治を支えるという自分自身の役割。

いくつもの事情が重なっていた可能性があります。

楠木正成を忠義の武将と呼ぶことはできます。

けれども、その一言だけで正成という人物のすべてを説明することはできません。

正成には家族がいました。

一族がいて、領地があり、共に戦ってきた人々がいました。

千早城で戦い、鎌倉幕府を倒し、新しい時代を迎えたその先に、再び戦乱が起こりました。

正成はその変化の中で、自分に求められる役割を考え、行動してきたのでしょう。

湊川で命を落としたという結果だけでなく、それまでに積み重ねてきた判断や行動も含めて、一人の人物として見つめたいと思います。

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