新田義貞と湊川の戦い。楠木正成はなぜ命を落とし、足利尊氏は再び立ち上がれたのか【2】
九州・多々良浜で起きた逆転
1336年3月2日。
筑前国多々良浜、現在の福岡市東部周辺で、足利尊氏の軍勢と、後醍醐天皇方の菊池武敏らの軍勢が激突しました。
多々良浜の戦いです。
尊氏は九州に到着した時点で、圧倒的に有利な立場にあったわけではありません。
九州には菊池氏など、建武政権を支持する有力武士も存在しました。
尊氏がこの地で敗れれば、再起への道が閉ざされる可能性もありました。
しかし、戦いは足利方の勝利に終わります。
この勝利によって尊氏は九州での立場を立て直し、再び東へ進む道を開きました。
ここで注目したいのは、尊氏が単に敗北を取り返したということではありません。
多々良浜での勝利は、それまで態度を決めかねていた武士たちにとっても、判断材料になったと考えられます。
尊氏には、まだ戦う力がある。
足利氏に従っても、一族や領地を守れるかもしれない。
そう考える武士が増えれば、軍勢はさらに大きくなります。
中世の戦いでは、軍事的な勝利が次の支持を呼び、その支持が新たな軍事力を生むことがありました。
一方で、敗れた側は兵力だけでなく、人々からの信頼や協力を失う危険もありました。
一度の戦いが、その後の情勢を大きく変えてしまう。
多々良浜の戦いは、まさにそのような転機となったのです。
新田義貞は、なぜ西国で足利軍を止められなかったのか
尊氏が九州で勢力を回復していたころ、新田義貞も西国で戦いを続けていました。
義貞は後醍醐天皇の命を受け、足利方の勢力を抑えようとしていました。
しかし、京都から西へ進む道には、足利氏を支持する武士たちの拠点がありました。
その代表的な存在が、播磨国の赤松則村、一般には赤松円心として知られる武将です。
赤松氏は、鎌倉幕府滅亡の過程では後醍醐天皇方として戦っていました。
ところが、建武政権成立後には政治的な立場が変わり、足利尊氏を支持するようになります。
昨日まで同じ目的に向かって戦っていた武士が、なぜ違う道を選ぶようになったのか。
そこには恩賞や領地、政治のあり方に対する考え方の違いがありました。
義貞は赤松氏の拠点である白旗城などを攻めましたが、攻略に苦しみます。
山城を攻めるには、敵の守る高所へ進み、狭い道を通り、補給を維持しなければなりません。
防御側が地形を利用して抵抗すれば、攻撃側は多くの時間を必要とします。
義貞の軍勢が西国で足止めされている間に、尊氏は九州で勢力を回復し、東へ向かう準備を整えました。
さらに、足利直義の軍勢も中国地方を東進します。
義貞は複数の方面から迫る足利勢に対応しなければならなくなりました。
新田義貞は鎌倉攻めで、大軍を率いながら幕府の本拠地を攻略した武将です。
その義貞が、西国では苦戦を重ねました。
しかし、これを単純に義貞の指揮能力が劣っていたからと考えるのは適切ではありません。
鎌倉攻めと西国での戦いでは、敵の配置、味方の支持、地形、補給、時間的な条件が異なっていました。
同じ人物であっても、置かれる環境が変われば、発揮できる力も変わります。
義貞は、自分の軍勢だけでなく、周囲の武士たちの行動によっても戦い方を変えざるを得なかったのです。
海と陸から迫る足利軍
1336年4月、九州を出発した足利尊氏は、再び京都を目指しました。
その進軍方法には、大きな特徴がありました。
足利尊氏が海路を進み、弟の足利直義は陸路を進んだのです。
瀬戸内海は、古くから西国と畿内を結ぶ重要な交通路でした。
陸上の軍勢は峠や河川、城などによって進路を制限されます。
一方、船を利用すれば、陸路とは異なる場所へ兵力を運ぶことができます。
ただし、海路にも危険はあります。
天候や潮流、船の数、兵糧の積載、上陸地点の確保など、多くの条件を整えなければなりません。
海から大軍を進めるには、船を提供する者、航路を知る者、兵を運ぶ者など、幅広い協力が必要です。
尊氏の東上は、足利氏を支持する武士たちに加え、瀬戸内海沿岸の勢力や海上交通に関わる人々の力に支えられていました。
そして、この海陸両面からの進軍が、後の湊川の戦いで大きな意味を持つことになります。