新田義貞と足利尊氏。鎌倉幕府を倒した二人は、なぜ敵同士になったのか【2】
新しい政権の中で生まれた対立
鎌倉幕府を倒した武士たちの中でも、新田義貞と足利尊氏は特に大きな存在でした。
しかし、二人の力の基盤は同じではありません。
尊氏には、長年にわたって築いてきた足利一門の関係や、各地の有力武士とのつながりがありました。
義貞にも新田一族や関東・越後などの武士との関係があり、鎌倉攻略で示した軍事的実績がありました。
武士たちは、必ずしも中央の政治方針だけで行動するわけではありません。
自分たちの領地を守れるのは誰か。
困ったときに頼れるのは誰か。
功績を認めてくれるのは誰か。
そうした現実的な判断も、武士たちが誰に従うかを左右しました。
さらに、後醍醐天皇の皇子である護良親王も、武士を率いて倒幕に貢献した重要人物でした。
護良親王と足利尊氏の関係は悪化し、やがて護良親王は捕らえられて鎌倉へ送られます。
新しい政権の内部では、天皇、皇子、公家、武士のそれぞれが異なる立場を持ち、政治の主導権をめぐる緊張が高まっていました。
これは義貞と尊氏だけの争いではありません。
新しい時代をつくろうとした人々が、誰を中心に、どのような秩序を築くのかという大きな問題に直面していたのです。
1335年、鎌倉で再び戦乱が起こる
鎌倉幕府の滅亡から約2年後。
1335年、北条高時の遺児・北条時行が兵を挙げます。
中先代の乱と呼ばれる戦いです。
北条氏の支配が終わっても、その一族や旧幕府に関わる人々が消えたわけではありません。
新しい政治に不満を持つ武士たちもいました。
北条時行の軍勢は関東で勢力を広げ、ついに鎌倉を奪還します。
鎌倉を守っていた足利尊氏の弟・直義は敗れ、鎌倉を離れました。
この混乱の中で、鎌倉に幽閉されていた護良親王が殺害されます。
護良親王の死は、後醍醐天皇の政権と足利氏の関係を考える上でも、重大な出来事となりました。
一方、尊氏にとっても、弟が敗れ、足利氏の重要拠点である鎌倉が失われたことは見過ごせない事態でした。
尊氏は軍勢を率いて東国へ向かいます。
そして北条時行の軍を破り、鎌倉を奪い返しました。
しかし、ここから事態は大きく変わります。
足利尊氏は、なぜ京都へ戻らなかったのか
鎌倉を奪還した尊氏に対し、後醍醐天皇は京都への帰還を命じました。
ところが、尊氏は鎌倉にとどまりました。
さらに足利方は、東国で軍事的な支配を固め、武士たちへの恩賞に関わる行動を進めていきます。
これは京都の建武政権にとって、重大な問題でした。
鎌倉幕府を滅ぼしたばかりなのに、再び鎌倉を中心とする武士の権力が生まれるのではないか。
中央政府の命令とは別に、武士たちが尊氏を中心として動き始めれば、後醍醐天皇が目指した政治の秩序は揺らぎます。
しかし、尊氏の側から見ればどうでしょうか。
北条氏の反乱を鎮圧した後も、東国の支配は安定していません。
戦いに参加した武士たちへの対応も必要でした。
彼らの期待に応えなければ、せっかく集まった軍勢や支持を失う可能性もあります。
尊氏が鎌倉に残った理由を、最初から天皇に反逆するつもりだったという一つの説明だけにまとめることはできません。
ただし、尊氏の行動が、京都の政権から独立した権力を形づくる方向へ進んでいたことは見逃せません。
そして、この問題を解決するために、新田義貞が再び戦場へ向かうことになります。