新田義貞 鎌倉幕府を滅亡へ導いた十五日間。稲村ヶ崎の海は、なぜ道を開いたのか【4】
鎌倉を守る人々にも、戦う理由があった
幕府の中心にいたのは、北条氏でした。
当時の得宗である北条高時は、すでに執権の職を退いていましたが、北条一門の中心的な存在でした。
しかし、幕府を支えていたのは北条氏だけではありません。
各地の御家人たちがいました。
幕府の政務を担う人々がいました。
鎌倉で生活する商人、職人、僧侶、そして家族たちもいました。
幕府が滅亡するということは、そうした人々の生活にも大きな影響を与える出来事でした。
義貞の軍勢が迫る中、幕府を守る武士たちは何を考えていたのでしょうか。
これまで続いてきた政治の仕組みを守りたいという思いがあったのでしょうか。
自分の家族や所領を守るためだったのでしょうか。
あるいは、北条氏との長年の関係を大切にしていた人々もいたでしょう。
その理由は、一人ひとり違っていたのかもしれません。
ここで大切なのは、幕府側の人々を、時代の変化についていけなかった人間として簡単に片づけないことです。
義貞には義貞の考えがありました。
幕府側にも、それぞれの立場と判断がありました。
互いに違うものを守ろうとした結果、戦いになったのです。
鎌倉の入口で始まった激戦
1333年5月18日頃。
義貞の軍勢は、鎌倉への攻撃を開始しました。
主要な攻撃地点となったのは、極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂などの入口でした。
幕府軍は、これらの場所を守ろうとします。
狭い道を進む攻撃側にとって、守る側の抵抗は大きな障害になりました。
『太平記』には、各地で激しい戦いが繰り広げられ、多くの武士が命を落とした様子が描かれています。
義貞の軍勢は、大きな兵力を持つようになっていました。
しかし、兵力が多いことと、城や町の防御を突破できることは同じではありません。
ここでも、戦う場所が結果に大きく影響していたのです。
千早城で楠木正成が幕府軍を相手に戦ったときには、山城を守る側が有利な地形を生かしていました。
今度は、鎌倉幕府の側が地形の利点を持っていたのです。
攻める側と守る側が入れ替われば、同じような地形でも意味が変わります。
義貞は、鎌倉の入口を突破する方法を考えなければなりませんでした。
その中で登場するのが、稲村ヶ崎という場所です。