新田義貞 鎌倉幕府を滅亡へ導いた十五日間。稲村ヶ崎の海は、なぜ道を開いたのか【3】
関戸の戦い。鎌倉への道が開かれていく
分倍河原で敗れた幕府軍は、多摩川を越えて南へ退きます。
そして、現在の東京都多摩市にあたる関戸周辺でも激しい戦いが行われました。
関戸の戦いでは、幕府側の武将たちが次々と命を落としたと伝えられています。
幕府軍にとって、鎌倉へ向かう道を守る戦いは、次第に厳しいものとなっていきました。
しかし、ここで考えたいことがあります。
幕府軍が退却したのは、単に武士たちが弱かったからなのでしょうか。
そうではなかったと思います。
敵の軍勢が増えていく。
別の地域では幕府に反対する動きが広がる。
そして、京都からも新しい知らせが届く。
幕府軍の指揮官たちは、戦場で目の前の敵と戦うだけでなく、そうした全体の状況にも対応しなければならなかったでしょう。
一つの戦場で勝つことができても、別の場所で大きな変化が起きれば、戦争全体の状況は変わります。
これは、楠木正成が千早城で戦っていたときにも見られたことです。
千早城だけでは幕府を倒せなくても、各地の反幕府勢力が動き出すことで、幕府全体が揺らいでいきました。
義貞の軍勢も、そうした全国的な変化の中で鎌倉へ向かっていたのです。
三方を山に囲まれた鎌倉
義貞の軍勢が迫っていた鎌倉は、特別な地形を持つ町でした。
北、東、西の三方を丘陵に囲まれ、南は相模湾に面しています。
源頼朝がこの土地を武家政権の中心として選んだ理由の一つには、守りに適した地形があったと考えられています。
鎌倉へ陸路から入るためには、山の尾根や谷を通る必要がありました。
その通路には、山を切り開いた「切通し」と呼ばれる道が設けられていました。
切通しは、人や物資が町へ出入りするために重要な役割を果たします。
しかし、戦いになれば、そこは防御の拠点にもなります。
広い平地では、大勢の兵士が横に並んで進むことができます。
ところが、狭い山道では、一度に進める人数が限られます。
後ろに大勢の兵士がいても、前方の通路が塞がれていれば、簡単には進めません。
守る側は、限られた場所に兵を配置し、敵の進入を妨げることができます。
幕府の人々は、こうした鎌倉の地形をよく知っていたはずです。
何世代にもわたって暮らし、道を整え、町を築いてきた土地だからです。
義貞は、その鎌倉を攻めようとしていました。