楠木一族と後南朝。南北朝合一の後も、なぜ戦い続ける人々がいたのか【2】
へ出られるのか。
どこに水があるのか。
どの季節に山道が通れるのか。
どの集落で食料を得ることができるのか。
こうした知識は、土地で暮らす人々が長い年月をかけて積み重ねてきたものです。
南朝が吉野を拠点とした背景には、政治的な事情だけでなく、こうした地域の地形や人間関係も関わっていたと考えられます。
しかし、険しい山に入れば必ず安全だったわけではありません。
山中で生活し続けるためには、食料や生活用品が必要です。
移動や連絡のためには、人々の協力も必要になります。
南朝を支持する人々が山中で活動を続けられたとすれば、その背後には、記録に名前が残らなかった多くの人々の働きもあったのではないでしょうか。
歴史には有名な武将や皇族の名前が残ります。
しかし、その人々を支えたのは、必ずしも武士だけではありません。
山道を案内した人。
食料を運んだ人。
危険を知らせた人。
寺院や集落で暮らしながら、情報をつないだ人。
そうした人々の存在にも、目を向けてみたいと思います。
正成が守った千早城も、時代の変化には抗えなかった
吉野から西へ目を向けると、河内の金剛山地があります。
ここには、楠木正成が鎌倉幕府の大軍と戦った千早城がありました。
1333年、正成は千早城で幕府軍の攻撃に耐え続けました。
険しい山の地形を生かし、相手の大軍が力を十分に発揮できないように工夫しました。
その戦いは、鎌倉幕府滅亡へ向かう時代の動きとも重なっています。
しかし、南北朝合一の年である1392年、千早城は幕府方の攻撃によって落城したと伝えられています。
正成の子孫とされる楠木正勝の時代でした。
正勝の経歴には不明な点もあり、楠木氏の系譜や千早城の落城についても、記録をさらに検討する必要があります。
それでも、千早城が後の時代まで南朝方の重要な拠点として記憶されていたことは、楠木一族の歴史を考える上で大切です。
正成が守り抜いた城が、子孫の時代には失われてしまう。
それは、後の世代の武将たちが正成より劣っていたということでしょうか。
私は、そう簡単には考えられないと思います。
1333年と1392年では、政治的な状況がまったく違っていました。
鎌倉幕府が各地の反乱によって揺らいでいた時代と、室町幕府が政治的な力を強めていた時代。
城の地形が同じでも、敵の勢力や周囲の協力関係が違えば、戦いの結果も変わります。
正成が生きた時代の方法を、そのまま繰り返せばよいわけではありません。
変化する環境の中で何を守り、何を変えるのか。
楠木一族の後の世代も、そうした判断を迫られていたのでしょう。