楠木正儀 父と兄を失い、南朝と北朝の間で生きた武将。何を守るために立場を変えたのか【4】
正儀は、再び南朝へ戻った
1382年。
正儀は、再び南朝へ帰参します。
1369年に室町幕府へ加わってから、およそ13年が経過していました。
この間、室町幕府の内部でも政治的な変化が起きています。
正儀を支えていた管領の細川頼之が失脚し、正儀の立場も不安定になっていきました。
また、南朝側の情勢も変化していました。
正儀が南朝へ戻った理由については、政治的な事情だけでなく、和平をめぐる考え方の変化など、複数の見方があります。
しかし、本人が何を最も重視していたのかを明確に示す記録は限られています。
ここで、正儀の人生を振り返ってみたいと思います。
父と兄の死後、南朝を支えた。
和平を探りながら、長い年月にわたって戦い続けた。
その後、北朝側の室町幕府へ加わった。
そして最後には、再び南朝へ戻った。
この歩みを、何度も立場を変えた人物として見ることもできるでしょう。
しかし、別の見方もできるのではないでしょうか。
正儀は、変化する状況の中で、その時点で最もよいと考える方法を選び続けていたのかもしれません。
南朝に残ることが目的だったのではなく、守ろうとしていたものを実現するために、南朝で戦うことを選んでいた。
そして、それが難しくなれば、別の方法を探した。
そのような可能性も考えられます。
もちろん、それが正儀の本当の思いだったと断定することはできません。
しかし、父や兄の人生と比べることで、正儀の歩んだ道の意味を、もう少し深く考えられるように思います。
父・正成、兄・正行、そして正儀
楠木正成は、鎌倉幕府の大軍を相手に、限られた条件の中で戦う方法を考えました。
赤坂城を失っても戦いを続け、千早城では険しい地形を利用して幕府軍の攻撃を防ぎました。
そして、新しい政治の中で足利尊氏と対立し、湊川で命を落としました。
正行は、父の死後も河内で人々をまとめ、南朝を支えるために戦いました。
渡辺橋で敵兵を救ったという伝承も残し、最後には四條畷で命を落としました。
正儀もまた、父や兄と同じ楠木一族の人間です。
しかし、正儀は違う人生を歩みました。
長く戦い続けながら、和平の道を探り、政治的な立場を変えることもありました。
そして、父や兄とは異なり、長い争乱の時代を生き抜いていきます。
ここで私は、正儀が父や兄より優れていたとか、反対に信念が弱かったとか、そのような比較をしたいわけではありません。
三人には、それぞれ異なる環境がありました。
正成が生きたのは、鎌倉幕府が滅亡し、新しい政治が始まる時代でした。
正行は、南北朝の争いが続く中で成長しました。
そして正儀は、その争いが長期化し、戦いだけでは解決できない問題が積み重なっていく時代を生きました。
同じ考えを持っていたとしても、置かれた環境が違えば、必要な行動も変わることがあります。
正儀の選択は、そうした変化の中から生まれたものだったのかもしれません。