楠木正成 平泉寺の深い森に残された供養塔。なぜ遠く越前の地で弔われたのか【4】
河内から湊川へ。知略で時代を動かした武将と、語り継がれた人々の記憶
福井県勝山市にある平泉寺白山神社。
杉の巨木が立ち並び、苔むした石畳が続く境内を奥へ進んでいくと、三之宮の手前に、一基の古い石塔があります。
その石塔は、楠木正成の供養塔です。
楠木正成といえば、大阪府の河内地方を拠点に活躍し、鎌倉幕府の大軍を相手に巧みな戦いを繰り広げた武将として知られています。
1336年、兵庫の湊川で足利尊氏の軍勢と戦い、命を落としました。
しかし、その正成を弔う石塔が、なぜ遠く離れた越前の山中にあるのでしょうか。
平泉寺には、正成の親族と伝わる一人の僧侶がいました。
そして、その僧侶にまつわる不思議な伝承が残されています。
さらに歴史を調べていくと、この平泉寺は後醍醐天皇を支えた勢力と関係を持ちながら、後には足利方に加わり、正成と同じ側で戦った新田義貞と敵対することになります。
正成を弔う人がいた場所で、なぜ同じ立場の武将と戦うことになったのでしょうか。
その背景には、一人ひとりの信念だけでは動かせない、複雑な時代の事情があったように思います。
今回は、平泉寺に残る供養塔を手がかりに、楠木正成という人物と、彼を取り巻いた人々の歴史をたどってみたいと思います。

河内の地から現れた武将
楠木正成が歴史の表舞台に登場するのは、鎌倉幕府の支配が大きく揺らぎ始めた14世紀前半です。
正成の生年や若い頃の詳しい生活については、分かっていないことが少なくありません。
河内を本拠とした武士であり、周辺の土地や人々との関係を持っていたことは知られていますが、その勢力がどのように形成されたのかには、まだ研究上の議論があります。
河内は、大和川の水系や生駒・金剛の山々に囲まれた土地です。
山地と平野が近く、水運による交易も行われていました。
農業を営む人々、物資を運
鎌倉幕府の滅亡と、新しい時代への期待
千早城での抗戦が続く中、各地で幕府に反対する動きが広がっていきました。
足利高氏、後の足利尊氏は、幕府側の武将として出陣しながら、途中で幕府に反旗を翻します。
新田義貞も関東で挙兵しました。
そして1333年、鎌倉幕府は滅亡します。
長く続いてきた政治体制が、大きく変わることになったのです。
後醍醐天皇は京都で新たな政治を始めました。
建武の新政と呼ばれる時代です。
正成も、その功績によって河内守などの地位を与えられました。
ここで一つ考えてみたいことがあります。
鎌倉幕府を倒すという目的のもとでは、多くの武士たちが協力することができました。
しかし、幕府がなくなった後、どのような社会をつくるのか。
その答えが、全員同じだったとは限りません。
土地を守りたい武士もいれば、新しい地位を求める人もいたでしょう。
朝廷の政治を立て直したい人々もいれば、武士が中心となる政治を求める人々もいました。
一つの目標を達成するために力を合わせることと、その後も同じ方向へ進み続けることは、別の問題です。
正成も、そうした難しい状況の中に置かれていきました。
かつての仲間が、敵になった
1335年、足利尊氏は後醍醐天皇の政治から離れ、武士たちを率いて独自の行動を始めます。
後醍醐天皇のもとで鎌倉幕府を倒した人々が、今度は互いに戦うことになったのです。
正成は新田義貞らとともに尊氏軍と戦い、一度は尊氏を九州へ退かせます。
しかし、尊氏は九州で勢力を立て直し、
失われた宗教都市と、残された供養塔
平泉寺は、その後も越前で大きな勢力を持ち続けました。
広大な土地を持ち、多くの坊院が立ち並び、宗教だけでなく政治や経済にも影響を与える存在となっていきます。
しかし、戦国時代にはその平泉寺も大きな転機を迎えました。
1574年、一向一揆との戦いによって、平泉寺は全山を焼失します。
長い年月をかけて築かれた建物や、そこに暮らしていた人々の生活が大きく失われました。
楠木正成の供養塔も、このとき一部が損傷したと伝えられています。
それから約90年後の1668年。
福井藩主の松平光通によって、供養塔が補修され、周囲に玉垣が設けられました。
ここでも、考えてみたいことがあります。
正成が亡くなってから、すでに300年以上が経過しています。
鎌倉幕府も、建武の新政も、南北朝の争いも、遠い過去の出来事となっていました。
それでも、この場所には正成を弔う石塔が残され、後の時代の人々が修復しているのです。
なぜ、その記憶を残そうとしたのでしょうか。
単に有名な武将だったからでしょうか。
それとも、正成という人物の生き方や、湊川での最期に、人々が忘れたくない何かを感じていたのでしょうか。
さらに1835年には、福井藩士の大谷俊氏が平泉寺を参拝し、正成の供養塔を訪れた記録が残っています。
俊氏が訪れたのは、正成の五百回忌にあたる日の直前でした。
正成を弔う場所を訪れた喜びを、俊氏は歌に残しています。
その記録からは、何世紀も前に亡くなった正成に対して、なお強い思いを寄せる人がいたことが伝わってきます。
政治の仕組みも、武士の役割も、社会のあり方も変わっていった時代。
それでも、一人の人物を大切に思う気持ちは、長い年月を超えて受け継がれていたのです。