楠木正成 平泉寺の深い森に残された供養塔。なぜ遠く越前の地で弔われたのか【1】
ぶ人々、商人、寺社、そして武士たち。
それぞれが異なる仕事を持ちながら、一つの地域社会を形成していました。
正成もまた、そのような土地で生きていた人間です。
後世には優れた軍略家として知られる正成ですが、最初から大軍を率いる有力武将だったわけではありません。
では、正成はどのようにして人々をまとめ、強大な鎌倉幕府と戦う力を持つようになったのでしょうか。
その答えを考える上で、河内の地形と、地域に暮らす人々の存在は欠かせないと思います。
千早城で見せた、もう一つの戦い方
1331年、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の動きが本格化する中、楠木正成は河内で挙兵しました。
最初の赤坂城での戦いでは幕府軍に攻められ、一度は城を失います。
しかし、正成はそこで終わりませんでした。
再び兵を集め、1333年には千早城で幕府軍を迎え撃ちます。
千早城は、金剛山の山中に築かれた山城です。
険しい斜面と限られた進入路を持つ地形は、大軍が一度に攻め込むことを難しくします。
正成は、そこに目をつけました。
真正面から大軍と戦えば、兵の数で勝る幕府軍が有利です。
しかし、戦う場所や方法を変えれば、兵力の差がそのまま勝敗を決めるとは限りません。
『太平記』には、正成たちが石や丸太を利用し、敵の動きを読んで防戦した様子が描かれています。
その記述には物語としての脚色も考えられますが、千早城が幕府軍の攻撃に耐え続けたことは、正成の軍事的な能力を考える上で重要です。
ここで注目したいのは、正成が何を武器にしていたのかということです。
もちろん、兵士の勇気や武器の性能も必要だったでしょう。
しかし、それだけでは大軍に対抗することはできません。
地形を読む力。
相手の動きを予測する力。
兵や物資を適切に配置する力。
そして何より、自分たちの置かれた状況を理解し、できる方法を考える力。
正成は、目の前の不利な条件をただ嘆くのではなく、その条件の中で勝機を探していたのではないでしょうか。
また、山城で戦い続けるためには、兵士たちだけでなく、食料や資材を確保し、運搬し、周囲の動きを知らせる人々も必要になります。
正成の戦いを考えるとき、城を守った武士だけでなく、河内という土地に暮らす多くの人々の存在にも目を向ける必要があります。
有名な武将が一人いれば、大軍に勝てるわけではありません。
その判断を実行できる仲間と、それを支える仕組みがあってこそ、戦いを続けることができるのです。