敵だった男の妻となった板額御前。甲斐の地に残された、もう一つの人生【1】
故郷を失い、捕虜となった女武者。彼女を救った男には、一族の運命につながる意外な背景があった。
1201年、鎌倉。
越後国の鳥坂城で幕府軍と戦い、捕虜となった一人の女性が、将軍・源頼家の前に引き出された。
板額御前。
坂額御前とも呼ばれる、弓の名手である。
彼女は越後の有力武士・城氏の一族として生まれ、甥の城資盛が起こした反乱に参加した。
城の矢倉から敵を射続け、その弓の腕前は父や兄たちをしのぐほどだったと『吾妻鏡』に記されている。
しかし、背後の高所へ回り込んだ敵の矢を受け、ついに捕らえられた。
彼女が守ろうとした鳥坂城は落ち、一族の勢力も大きな打撃を受けた。
もはや板額に、かつてのような自由はなかった。
戦いに敗れた武士の一族に属し、しかも幕府の兵士たちを苦しめた女性である。
その身柄をどのように扱うかは、幕府側の判断に委ねられていた。
ところが、ここで一人の武将が思いがけない申し出をする。
浅利与一義遠。
甲斐源氏の一族に生まれ、源頼朝に従って幾度もの戦いを経験した、弓の名手だった。
彼は板額を妻として迎えたいと願い出たのである。
敵だった女性を、なぜ妻に迎えようとしたのだろう。
勇敢な女性に魅力を感じたからだろうか。
優れた武芸を持つ子どもを望んだからだろうか。
それとも、私たちがまだ知らない、二つの一族の関係があったのだろうか。
今回、その足跡を追ってみると、実に興味深い可能性に出会った。
板額御前と浅利義遠は、戦場では敵味方に分かれていたものの、その家系をさかのぼると、以前から関係があったのかもしれないのである。
もしそうだとすれば、板額を助けた理由も、これまでとは違って見えてくる。
そして甲斐の地には、弓を置いた後の板額が、一人の女性として暮らしたことを伝える小さな遺跡や伝承が残されていた。
浅利与一義遠という、もう一人の弓の名手
浅利義遠の人生は、板額御前に出会うよりも、ずっと前から始まっていた。
義遠は甲斐源氏の一族で、源清光の子とされる。
甲斐源氏は現在の山梨県を中心に勢力を広げた源氏の一族である。
その中には、武田氏や安田氏など、後の歴史にも名を残す武士たちがいた。
義遠は現在の山梨県中央市浅利周辺を本拠地とし、浅利氏の祖となった人物として知られている。
源平合戦では源氏側で活躍し、『平家物語』にも弓の名手として登場する。
私たちは、以前の歴史探訪で那須与一の人生を追いかけた。
屋島の戦いで、平氏の船に掲げられた扇の的を射抜いたと伝えられる武将である。
浅利与一もまた、その那須与一と同じ時代に生きた。
しかも、後世の物語では、那須与一と浅利与一は、ともに弓の名手として知られる存在だった。
同じ「与一」という名で呼ばれているが、これは特別な称号ではなく、それぞれの武士の通称である。
それでも、二人がともに弓の名手として語り継がれてきたことは興味深い。
浅利義遠の弓は、どれほど強かったのだろう。
山梨県中央市の豊富郷土資料館には、『平家物語』に記された義遠の強弓を再現した展示がある。
九尺の弓。
現在の長さに換算すると、およそ2.7メートルに相当する。
通常の弓と比較すると、その大きさは際立っている。
もちろん、軍記物語に描かれた弓の寸法が、実際に義遠が使用したものと完全に一致するとは限らない。
しかし、彼が並外れた弓の使い手として記憶されてきたことは分かる。
そして、この浅利義遠が板額御前を妻に迎えた。
二人とも弓に優れていた。
ここに、単なる偶然とは片づけたくないものを感じる。
ただし、同じ能力を持っていたことが、必ずしも二人を結びつけた最大の理由だったとは限らない。
実際に家系を調べていくと、もう一つ、気になるつながりが見えてくるのである。