敵だった男の妻となった板額御前。甲斐の地に残された、もう一つの人生【2】
敵同士だった二人には、古いつながりがあったのか
浅利義遠の父は源清光と伝えられている。
しかし、母親が誰だったのかについては、はっきりしていない。
ここで重要になるのが、市河氏という一族である。
市河氏は、甲斐国の市河荘に関係する武士の一族で、越後の城氏と系譜上のつながりを持つ可能性が指摘されている。
中央市豊富郷土資料館の研究紹介では、浅利義遠の母親が市河氏の女性だった可能性が検討されている。
もしこの推定が正しければ、義遠の家と板額の城氏は、まったく無関係な一族ではなかったことになる。
ここで、板額の父を思い出してみたい。
城資国。
越後に勢力を持っていた城氏の武士である。
その城氏と、義遠の母方だったかもしれない市河氏との間に関係があったとすれば、両者の家系には、板額と義遠が鎌倉で出会う以前から、何らかのつながりが存在した可能性がある。
もちろん、この仮説には未確認の部分がある。
義遠の母親が本当に市河氏だったのか。
市河氏と城氏の関係は、どの程度のものだったのか。
義遠自身が、その関係をどこまで知っていたのか。
いずれも、確定した事実ではない。
しかし、この可能性を考えると、義遠の行動は違った意味を帯びてくる。
『吾妻鏡』によれば、義遠は板額を妻に迎え、強い子どもをもうけたいと願い出た。
それは、将軍の前で語られた理由である。
しかし、それだけが義遠の本心だったとは限らない。
もし板額が、自分の母方とつながる一族の女性だったとすれば、義遠には彼女を助けようとする別の理由があった可能性もある。
戦いに敗れた親類筋の女性を、処刑や厳しい処遇から救おうとしたのかもしれない。
あるいは、政治的に危険な立場に置かれた城氏との関係を、新しい形で結び直そうとしたのかもしれない。
しかし、どちらも確認された事実ではない。
ここで大切なのは、義遠の言葉を疑うことではなく、人間の行動には、表に現れた理由とは別に、複数の事情が関わっていることがあるという視点である。
義遠は、なぜ敵だった女性を救おうとしたのか。
その答えは、単なる恋愛や武勇への憧れだけでは説明できない可能性がある。
板額御前の人生を追いかけることで、私たちは武士社会の複雑な人間関係にも目を向けることになった。
二人が出会ったとき、浅利義遠は何歳だったのか
さらに調べていくと、二人の関係を考えるうえで、もう一つ興味深いことが分かってくる。
浅利義遠は、板額御前よりもかなり年上だった可能性がある。
中央市豊富郷土資料館によれば、義遠に関係する法久寺の位牌には、1221年に73歳で亡くなったとする記録がある。
そこから逆算すると、生年は1149年となる。
つまり、1201年に板額御前を妻に迎えたとき、義遠は数え年で53歳だったことになる。
一方、板額御前の生年は分かっていない。
したがって、二人の正確な年齢差は不明である。
それでも、義遠がすでに長い人生を経験した武将だったことは考えられる。
彼は源平合戦を経験し、奥州合戦にも関わった。
源頼朝の政権が成立する過程を、実際に見てきた人物だった。
そして1201年には、すでに源頼朝が亡くなり、二代将軍の源頼家が幕府を率いていた。
世代が変わり、政治の仕組みも少しずつ変化し始めている。
そのような時代に、義遠は城氏の反乱で捕らえられた板額御前を妻に迎えたのである。
義遠には、それ以前に妻や子どもがいたとされる。
つまり、板額との婚姻は、彼にとって人生で初めて家庭を築く出来事ではなかった可能性が高い。
ここで考えたいのは、義遠が何を求めていたかという問題である。
武勇に優れた子どもを望んだという言葉は、確かに『吾妻鏡』に残されている。
しかし、当時の武士にとって、子どもをもうけることは単なる個人的な希望だけではなかった。
家を継ぐ者を育てる。
所領を守る。
次の世代へ、一族の地位や人間関係を引き継いでいく。
そうした問題が、婚姻と深く結びついていた。
では、義遠は本当に板額の武芸に魅力を感じただけだったのだろうか。
それとも、自らの年齢や一族の将来を考えたうえで、彼女を迎え入れようとしたのだろうか。
さらに、もし両家に古い血縁関係があったのであれば、そこにも別の意味があったのかもしれない。
私たちは、まだ答えを出せない。
ただ、義遠の年齢や、それまでの人生を知ることで、板額との婚姻が、単純な男女の出会いではなかった可能性が見えてくる。
板額御前は、敵の妻になったのだろうか
ここで少し、板額自身の立場から考えてみたい。
彼女は、越後の城氏の一族として戦っていた。
その城氏は、かつて平氏側に属し、木曾義仲と戦ったこともある。
そして鎌倉幕府が成立した後、再び幕府に対抗して敗れた。
一方、浅利義遠は源頼朝に従い、幕府の成立を支えた武将である。
二人は、少なくとも1201年の争いでは敵対する立場にあった。
では、板額は義遠を敵として憎んでいたのだろうか。
そうとも限らない。
一族同士の対立と、個人同士の感情は、必ずしも同じではない。
政治的な立場によって戦う相手が決まることはあっても、その相手を個人的に憎んでいたとは限らないからである。
反対に、義遠が板額を助けたからといって、板額がすぐに信頼を寄せたとも考えられない。
そこには、時間が必要だったかもしれない。
言葉を交わし、互いの考え方を知り、新しい生活をともにする。
その中で、初めて見えてくるものもあっただろう。
ただし、実際に二人がどのような会話をし、どのように夫婦として暮らしていたのかを伝える記録は残されていない。
だから、二人が愛し合っていたとも、望まない結婚だったとも決めることはできない。
しかし、ここで一つだけ考えておきたいことがある。
敵味方という関係は、必ずしも一人の人間のすべてを表すものではない。
戦場では敵だったとしても、その人間が持つ能力や経験、考え方まで否定されるわけではない。
義遠が板額の武勇を評価したという記録には、少なくとも、敵だった女性の能力を認める姿が描かれている。
その評価が婚姻につながった。
そして二人は、甲斐の地で新しい生活を始めたとされている。