敗れた一族を守るため、弓を取った女性。板額御前の知られざる人生【7】
越後から甲斐へ。まったく違う土地での暮らし
板額が向かった甲斐国は、現在の山梨県にあたる。
彼女が生まれ育った越後とは、地形も気候も異なっていた。
越後には日本海へとつながる平野があり、冬には雪深い地域も多い。
一方、甲斐は周囲を山々に囲まれた内陸の土地である。
甲府盆地では、山から流れる川が扇状地を形成し、古くから人々の生活を支えてきた。
その甲斐で、浅利義遠は現在の山梨県中央市周辺に勢力を持っていた。
板額も、義遠とともにこの地域で暮らしたと伝えられている。
では、彼女はどのような生活を送ったのだろう。
戦場では、誰よりも優れた弓の技術を発揮した女性だった。
しかし、甲斐での生活では、その技術を使う機会があったのだろうか。
それとも、武器を置き、家族や周囲の人々と日々を過ごしたのだろうか。
板額が甲斐へ移った後の具体的な暮らしについては、記録が乏しい。
『吾妻鏡』に残る彼女の鮮烈な姿も、鎌倉での出来事を境に見えなくなっていく。
ところが、山梨県には、板額御前のその後を伝える場所が残されている。
板額塚。
そして、帯石と呼ばれる石である。
帯石には、板額が妊娠し、安産を願って参詣する途中、この場所で腹帯を締め直したという伝承がある。
また、板額塚には、彼女がこの地で亡くなり、葬られたという話が残されている。
これらの伝承は、彼女が実際にその場所を訪れたことを直接証明するものではない。
しかし、興味深いのは、そこに描かれている板額御前の姿である。
鳥坂城で弓を構えていた女性が、今度は子どもの誕生を願う女性として語られている。
武芸に優れた人物というだけではなく、家族を持ち、新しい土地で暮らす一人の人間として、その名前が伝えられてきたのである。
板額御前は、幸せだったのだろうか
ここで、私たちには答えの出せない疑問が残る。
板額御前は、甲斐で幸せに暮らしたのだろうか。
浅利義遠との間に、どのような関係が生まれたのだろう。
夫婦として互いに信頼し合うようになったのだろうか。
それとも、故郷を失った悲しみを抱えたまま、日々を過ごしていたのだろうか。
板額の晩年の生活について、確かな記録はほとんど残されていない。
そのため、幸せだったとも、不幸だったとも決めることはできない。
ただし、ここで一つ考えてみたい。
人間の人生は、一つの出来事だけで決まるものではない。
鳥坂城での敗北は、板額にとって大きな転機だった。
一族の勢力を失い、捕虜となり、敵の本拠地へ送られた。
その時点では、彼女自身も、後に甲斐で暮らすことになるとは想像していなかったかもしれない。
しかし、そこで人生が終わったわけではなかった。
新しい土地へ移り、新しい人間関係の中で生活することになった。
そこでは、越後で身につけた能力が役立つ場面もあったかもしれない。
反対に、これまでとは違う知識や考え方が必要になったこともあっただろう。
人間は、慣れ親しんだ環境が変わったとき、以前と同じように生きられるとは限らない。
それまで大切にしてきたものを失うこともある。
しかし、新しい環境の中で考え、学び、別の生き方を見つけることもできる。
私たちはこれまで、源義経やテムジンの人生をたどりながら、そのことを考えてきた。
板額御前の場合も、同じ視点から考えられるのではないだろうか。
ただし、彼女がどのように新しい環境へ順応したのか、その具体的な過程を伝える記録はない。
だからこそ、私たちは想像と記録を混同せず、一人の女性に残された可能性として考えていきたい。