歴史に埋もれた二人の女性。山吹御前と葵御前が見た木曾義仲の運命【2】
山吹御前は、どこから来たのだろう
山吹御前については、各地に異なる出自の伝承がある。
木曾の中原兼遠の一族だったという話。
巴御前と姉妹だったという話。
さらに、信濃国の海野氏に関係する女性だったという伝承もある。
海野氏は、信濃の東部に勢力を持った武士の一族である。
現在の長野県東御市周辺には海野氏に関係する歴史が残されており、その一族の女性が義仲と結ばれたという物語が伝わっている。
ここで考えてみたいのは、なぜ山吹御前の出自が、複数の武士の一族と結びつけられたのかということである。
当時の武士にとって、婚姻は個人同士の関係であると同時に、一族と一族を結ぶ役割を持つことがあった。
それぞれの地域に勢力を持つ者が、婚姻を通じて協力関係を築く。
その結びつきが、戦いの際に軍勢を集める力となることもあった。
義仲が信濃から北陸へ勢力を広げていった背景にも、地域の武士たちとの関係があった。
もし山吹御前が信濃の有力な一族の出身だったとすれば、義仲との関係には、個人的な愛情だけではない意味があった可能性も考えられる。
ただし、これは当時の武士社会の仕組みから考えられる可能性であり、山吹御前の出自や婚姻の目的が確認されたわけではない。
重要なのは、歴史上の女性を、ただ誰かの妻や恋人だったという説明だけで終わらせないことである。
女性の存在もまた、人と人、一族と一族、地域と地域を結びつける重要な役割を持っていた。
山吹御前をめぐる伝承には、そのような当時の社会の姿が重なっているのかもしれない。
義仲の息子、義高。その母親は誰だったのか
山吹御前の人生を考えていると、一人の少年の名前に行き着く。
源義高(みなもとのよしたか)。
清水冠者義高とも呼ばれた、木曾義仲の息子である。
義高は、義仲と源頼朝の関係を考えるうえで重要な人物だった。
1183年、義仲と頼朝の間に緊張が高まったとき、義高は鎌倉へ送られた。
頼朝の娘である大姫の婿となる名目であったが、両者の対立を抑えるための人質という政治的な意味も持っていた。
幼い少年が、父のもとを離れ、鎌倉で暮らすことになったのである。
義高は何を思っていただろう。
自分がなぜ鎌倉へ行かなければならないのか、どこまで理解していたのだろうか。
父の義仲は、息子を送り出すとき、どのような気持ちだったのだろう。
そして、義高の母親は誰だったのだろう。
ここで山吹御前の名前が登場する。
後世の伝承では、山吹御前が義高の母だったとする話がある。
江戸時代の歌川国芳が描いた錦絵『賢女烈婦伝 山吹御前』にも、山吹御前を義仲の妻とし、義高の母とする物語が記されている。
しかし、この錦絵は義仲の時代から六百年以上後につくられた作品である。
その内容を、そのまま十二世紀の事実として扱うことはできない。
義高の母親については、巴御前とする伝承もあり、確定していない。
それでも、この問題は山吹御前を考えるうえで見逃せない。
もし山吹が義高の母だったとすれば、彼女は義仲を失っただけでなく、息子の運命とも深く関わることになるからである。
父を失った少年に待っていた運命
1184年、木曾義仲は近江国の粟津で討たれた。
義高の父は、源頼朝が派遣した軍勢との戦いに敗れたのである。
鎌倉にいた義高の立場は、一変した。
それまで義仲と頼朝の関係をつなぐ役割を持っていた少年が、今度は討たれた敵将の息子になってしまった。
父の死によって、少年自身も危険な立場に置かれたのである。
『吾妻鏡』には、義高の逃亡と、その後の悲劇が記されている。
義高は鎌倉を脱出したが、武蔵国で捕らえられ、命を落とした。
まだ幼い少年だった。
頼朝の娘、大姫は義高を慕っていたと伝えられ、その死に深く悲しんだという。
ここには、父と息子、政治と家族という、二つの世界が重なっている。
大人たちにとって、義高は政治的な意味を持つ存在だった。
しかし、大姫にとっては、身近で時間をともに過ごしてきた一人の少年だったのだろう。
同じ人物であっても、見る立場によって意味が変わる。
政治的な判断として行われたことが、個人の人生に大きな傷を残すこともある。
では、義高の母親は、この出来事を知ったのだろうか。
もし山吹御前が母だったとすれば、義仲の死を知り、さらに息子の死まで知らされることになったのかもしれない。
しかし、そのような出来事を経験した女性が山吹だったと断定できる記録はない。
母親が誰だったのかも、その後どこで暮らしていたのかも、分かっていない。
だからこそ、私たちはここで答えを急がずにいたい。
歴史に残された空白は、想像によって簡単に埋められるものではない。
ただ、その空白の向こうにも、人間の人生があったことを忘れたくないのである。