那須与一の謎|扇の的を射抜いた若武者は、どこで弓の技術を身につけたのか【1】
1185年2月。
現在の香川県高松市、屋島の海岸。
源氏と平家の軍勢が向き合う中、平家の船から一艘の小舟が進み出てきました。
船には一人の若い女性が乗っていました。
その女性は、竿の先に日の丸を描いた扇を掲げ、源氏の軍勢に向かって手招きをしたと伝えられています。
波に揺れる船。
風を受けて動く扇。
夕暮れが近づく海岸。
その光景を見た源義経は、弓の名手を呼び出しました。
那須与一。
下野国那須、現在の栃木県北部に生まれたと伝えられる若い武士です。
義経は与一に、船に掲げられた扇を射落とすよう命じました。
与一は馬を海へ乗り入れ、弓を構えます。
そして放たれた一本の矢は、見事に扇を射抜いたといわれています。
この場面は『平家物語』の中でも特に有名で、後世には絵画や舞台芸能、地域の伝承として広く語り継がれてきました。
しかし、ここで考えてみたいことがあります。
与一は、なぜそれほど優れた弓の技術を持っていたのでしょうか。
馬に乗り、波に揺れる船の上の小さな的を射る。
そのような技術は、突然身につくものではありません。
また、義経はなぜ、多くの武士たちの中から与一を選んだのでしょうか。
二人は以前から知り合いだったのでしょうか。
それとも、戦場で与一の能力を知ったのでしょうか。
私たちはこれまで、義経の戦いを英雄一人の能力ではなく、異なる技術を持つ人々が協力する集団の仕事として考えてきました。
那須与一の伝承には、その考えをさらに深める手がかりが隠されているように思います。
今回は、扇の的という有名な物語から離れ、那須与一という人物の背景と、弓馬の技術を育んだ人々の歴史を探っていきたいと思います。
那須与一は、どのような家に生まれたのか
那須与一は、下野国那須地方を拠点とした那須氏の一族と伝えられています。
父は那須資隆。
与一は、その十一男だったといわれています。
「与一」という名前も、十一男を意味する通称だったという説明があります。
本名は宗隆、あるいは宗高とも伝えられています。
ただし、与一の出生年や没年については複数の説があり、詳しい生涯は明らかになっていません。
那須氏そのものは、中世を通じて下野国に勢力を持った一族です。
現在の栃木県大田原市周辺にも、那須氏に関係する城跡や墓碑、伝承が残されています。
ここで私たちが注目したいのは、与一の生まれた那須地方の地理的な特徴です。
那須には広い土地があり、山地があり、川があります。
北には那須連山が広がり、東には八溝山地があります。
那珂川などの河川が流れ、山地と平野が結びつく地域です。
そのような土地では、馬を育てることや、山野を移動することが人々の生活に関わっていたと考えられます。
東国の武士たちは、馬に乗って弓を射る技術を重要な武芸としていました。
しかし、その技術は、戦いの直前に身につけるものではありません。
幼い頃から馬に接し、弓を扱い、身体の使い方を覚える必要があります。
与一が優れた弓の技術を持っていたとすれば、その背景には那須地方での生活や、周囲の人々から受け継いだ経験があったと考えられます。
弓の名手は、一人では育たない
弓を上手に射るためには、単に腕の力が強ければよいわけではありません。
弓には、引き方があります。
身体の姿勢があります。
弦を離す瞬間の動作があります。
風や距離を考える必要もあります。
さらに、馬に乗った状態で弓を射る場合には、別の難しさが加わります。
馬は動きます。
人の身体も揺れます。
地面に立っているときとは、重心の位置が変わります。
そして、馬の動きと弓を引く動作を合わせなければなりません。
こうした技術は、繰り返し経験することで身についていくものです。
ここで忘れてはならないのは、弓そのものを作る人々の存在です。
当時の和弓には、木や竹などの材料が使われていました。
弓の構造や製作方法は、時代や用途によって違いがあります。
弦を作る人も必要です。
矢柄を整える人も必要です。
矢羽を選び、取りつける人もいます。
鏃を作る金属加工の技術も関係します。
優れた射手が生まれるためには、道具を作り、整える人々の仕事が欠かせません。
また、馬を扱うのであれば、馬具を製作し、修理する人々も必要です。
私たちは、那須与一の弓の技術を考えるとき、その背後にいた多くの人々の存在にも目を向けたいと思います。
与一が優れていたとしても、その能力は与一一人だけで生まれたものではなかったはずです。
なぜ那須氏の兄弟は、源氏と平家に分かれたのか
那須与一の伝承には、もう一つ興味深い話があります。
那須資隆には多くの息子がいました。
そのうち、長男から九男までが平家方につき、十男の為隆と十一男の与一が源氏方についたというのです。
この話は、後世の那須氏に関する記録や地域の伝承に残されています。
もしこの構図が実際に存在していたのであれば、同じ父を持つ兄弟が、戦場では敵味方に分かれていたことになります。
ここには、当時の武士たちが置かれていた複雑な状況が見えてきます。
源氏と平家の争いは、単純に二つの血族が対立しただけの戦争ではありません。
それぞれの地域に暮らす武士たちが、自分たちの立場や土地、将来を考えながら、どちらの勢力と協力するかを選んでいました。
そのため、同じ一族であっても政治的な判断が一致しないことがありました。
那須氏の兄弟が源氏方と平家方に分かれたという伝承も、そのような時代の姿を伝えているのかもしれません。
さらに、兄弟が異なる勢力に分かれることは、一族全体の存続という面からも考える余地があります。
戦争では、どちらが勝つかを最初から知ることはできません。
もし一族の全員が一方に従い、その勢力が敗れれば、一族全体が大きな危険にさらされる可能性があります。
一方、異なる勢力に分かれていれば、戦いの後に一族を存続させる道が残ることも考えられます。
ただし、那須氏が最初から一族を守るために兄弟を分けたという記録があるわけではありません。
私たちは、兄弟が異なる勢力に属したという伝承を、人々が戦乱の中でどのように生き残ろうとしていたのかという視点から考えています。