天武天皇と律令国家の謎|なぜ古代日本は、人と土地を把握しなければ国を動かせなかったのか【7】
戸籍に名前を残した人々は、何を感じていたのか
古代の戸籍には、人々の名前や家族関係などが記録されました。
しかし、そこに名前を記された人々は、自分たちが国家の中でどのような存在として扱われるようになったのか、どこまで意識していたのでしょうか。
それまで地域の豪族や集落の関係の中で暮らしていた人々が、より広い国家の制度によって把握されるようになります。
税や労働の負担が制度として整理されていけば、暮らしの中にも変化が生じたはずです。
しかし、その変化を人々が歓迎したのか、不安に感じたのか、あるいは日々の仕事の中で受け入れていったのかは、ほとんど分かりません。
歴史書には、天皇や大臣、政治制度の名前が残されています。
しかし、戸籍に記録された一人ひとりの人々の気持ちまでは、十分に伝わってきません。
だからこそ、私たちは考えたいと思います。
新しい制度ができたとき、実際に仕事をする人々には、どのような変化が起きたのでしょうか。
土地を測る人々がいました。
戸籍を作る人々がいました。
木簡に文字を書く人々がいました。
税として集めた物資を運ぶ人々がいました。
そして、田畑を耕し、道具を作り、建物を建てる人々がいました。
彼らは、国家の仕組みを実際の社会の中で動かしていた人々です。
しかし、その仕事の多くは、歴史に詳しく記録されていません。
制度を考えた人物の名前は残っていても、それを実現した人々の名前はほとんど残されていないのです。
ここには、歴史を見るうえで大切な問題があるように思います。
国家の制度がどれほど立派であっても、それを動かす人々がいなければ意味がありません。
そして、その人々が日々の仕事を続けることができなければ、国家の仕組みも維持できなかったはずです。
天武天皇がつくろうとした国家の、本当の姿とは
今回、私たちは天武天皇の時代から律令国家の形成へと続く流れを、人と土地、技術と生産活動という視点から考えてきました。
その中で、いくつもの疑問が生まれました。
なぜ国家は、人々の名前や家族関係を把握する必要があったのか。
なぜ土地を測り、記録しようとしたのか。
なぜ物資に木簡を付け、情報を管理する必要があったのか。
なぜ氏族の序列を改め、都城を建設したのか。
これらは、それぞれ別の制度や事業として説明されることがあります。
しかし、私たちは、これらの間に一つのつながりがあるのではないかと考えました。
古代国家が目指したのは、各地に存在する人、土地、技術、生産力を、国家全体として把握し、必要な目的に向けて動かすことだったのではないか。
壬申の乱では、大海人皇子は地方の人々の協力によって勝利しました。
しかし、国家を継続して運営するためには、そのときの人間関係や政治状況だけに頼るわけにはいきません。
戸籍によって人々を把握する。
土地の情報を記録する。
木簡によって物資と情報を結びつける。
氏族の序列や官人の制度を整える。
そして、大規模な都城建設のような仕事を進める。
これらは、すべて異なる仕事です。
しかし、その根底には、人々の力をどのように組み合わせ、国全体として動かしていくのかという共通の問題があったのかもしれません。
ただし、ここで忘れてはいけないことがあります。
国家が人々を把握できるようになったからといって、国家がすべてを自由に動かせるようになったわけではありません。
土地には自然条件があります。
人々には暮らしがあります。
技術には習得するための時間が必要です。
地域には、それぞれ積み重ねられてきた経験があります。
そうしたものを無視して、制度だけで社会を動かすことはできません。
むしろ、国家が大きくなればなるほど、現場の人々の仕事や判断が重要になったのではないでしょうか。
ここで、天武天皇と律令国家の謎について、私たちなりの考察をまとめたいと思います。
律令国家の形成とは、単に中央の権力を強めることではなく、それまで各地で個別に動いていた人々の力を、共通の情報と制度によって結びつけようとする、長い試みだったのではないか。
そして、その試みを実現したのは、天皇や政治家だけではありません。
戸籍を作った人々。
土地を測った人々。
木簡に文字を書いた人々。
物資を運んだ人々。
道路や都城を造った職人たち。
田畑を耕し、生産活動を支えた人々。
そうした名前の残らない人々の仕事が、国家の仕組みを現実のものにしていったのです。
天武天皇は、壬申の乱に勝利して政治の中心に立ちました。
しかし、国を治めるために本当に必要だったのは、戦いに勝つ力だけではなかったのでしょう。
どこに誰がいるのか。
どこに何があるのか。
誰が何をできるのか。
どのようにすれば、人々の力を結びつけられるのか。
そのような問題に向き合いながら、日本の古代国家は形づくられていったのではないでしょうか。
そして、もう一つ。
国家の制度は、定めた瞬間に完成するものではありません。
実際に動かしてみなければ分からないことがあります。
現場で問題が起これば、仕組みを見直す必要があります。
社会が変われば、それに合わせた新しい方法も必要になります。
古代日本の国家形成も、そうした試行錯誤の積み重ねだったのかもしれません。
人々を記録することから、人々の力を生かすことへ。
その間には、私たちが想像する以上に大きな距離があったのではないでしょうか。
戸籍や土地の制度が整えられたという歴史の背後には、その距離を少しずつ埋めようとした多くの人々の仕事があったように思います。
次回予告|藤原京の謎 なぜ日本は巨大な都を造る必要があったのか
694年、持統天皇は藤原京へ遷都しました。
それまでの飛鳥の宮殿とは異なり、藤原京は広い範囲に道路や区画を計画的に配置した、本格的な都城でした。
しかし、ここに大きな疑問があります。
なぜ、古代日本はこれほど巨大な都を造る必要があったのでしょうか。
天皇が暮らすためだけならば、それまでの宮殿では足りなかったのでしょうか。
都を造るには、大量の木材や瓦、石材が必要です。
それを運ぶ人々も必要です。
建物を建てる職人、道路を整備する労働者、土地を測る技術者など、多くの人々が仕事に関わったはずです。
では、それほどの負担をかけてまで、巨大な都を造った理由は何だったのでしょうか。
天皇の権威を示すためだったのか。
役人や物資を集め、国家を効率よく運営するためだったのか。
それとも、都そのものが、日本列島の各地を結びつける新しい仕組みとして構想されていたのでしょうか。
次回は、藤原京を単なる古代の都としてではなく、測量、建築、物流、情報、そして全国の生産力を集める巨大な事業として考えていきます。
なぜ国家は、人と物を動かす仕組みを整えた後、その力を使って巨大な都を造ろうとしたのか。
藤原京の遺構から、その謎を探っていきます。