天武天皇と律令国家の謎|なぜ古代日本は、人と土地を把握しなければ国を動かせなかったのか【6】
人を把握する国家は、人を自由に動かせたのか
ここで、今回の中心となる謎にもう一度戻ってみます。
古代国家は、なぜ戸籍や土地制度を整えようとしたのでしょうか。
人々を把握することによって、税を集めやすくする目的があったことは考えられます。
労働力や兵士の動員にも関係していたでしょう。
しかし、ここで見落としてはいけないことがあります。
人を記録することと、その人を実際に動かせることは、まったく同じではありません。
例えば、戸籍に千人の人々が記録されていたとします。
しかし、その千人が全員、同じように働けるわけではありません。
年齢も違えば、体力も違います。
病気の人もいるでしょう。
農作業で忙しい時期もあります。
家庭の事情もあります。
また、技術者が必要な仕事であれば、人数だけを集めても意味がありません。
建築ができる人と、船を造れる人は、必ずしも同じではないからです。
では、国家は人々の数だけでなく、その人々が何をできるのかまで把握しようとしていたのでしょうか。
戸籍を作成することと、各地の職人や技術者の能力を把握することは、同じ仕事ではありません。
7世紀後半の国家が、人々の技術や職業をどの程度体系的に把握していたのかについては、不明な部分が多く残ります。
しかし、寺院や都城の建設、武器や道具の製造などを考えると、単に人数を集めるだけでは仕事を進められなかったはずです。
適切な技術を持つ人々を、必要な場所へ配置することが重要になります。
ここに、律令国家の形成を考えるもう一つの手がかりがあります。
国家は、人々を把握するだけでなく、その人々の力を具体的な仕事に結びつける必要があったのではないでしょうか。
それがどの程度実現していたのか。
そして、実際にはどのような人々がその役割を担っていたのか。
この問題は、法律の条文だけでは十分に見えてきません。
遺跡や出土品、木簡などの記録を通じて、少しずつ考えていく必要があります。
律令国家は、完成した仕組みだったのか
701年、大宝律令が制定されました。
これによって、日本の律令国家は重要な制度的基盤を持つことになりました。
しかし、律令が制定されたからといって、国家の仕組みが完全に完成したわけではありません。
制度を定めることと、その制度が社会の中で安定して機能することは違います。
戸籍を整えても、人口は変化します。
土地を管理しても、自然条件や耕作の状況は変わります。
道路を整備しても、洪水や災害によって使えなくなる可能性があります。
役人を配置しても、その人々が正確に仕事を行うとは限りません。
そして、人々の暮らしも、国家の制度に合わせて常に同じ状態で続くわけではありません。
むしろ、国家の制度が実際に動き始めてから、さまざまな問題が見えてきたのではないでしょうか。
例えば、土地を与える制度があっても、人口の変化によって土地が不足することがあります。
税を集める制度があっても、収穫が少ない年には人々の負担が重くなります。
労働力を集める制度があっても、農繁期に多くの人々を動員すれば、地域の生産活動に影響する可能性があります。
つまり、制度が存在することと、その制度が現実の社会に適していることは、必ずしも同じではありません。
ここで、私たちは律令国家という言葉を、少し違う意味で考えてみたいと思います。
律令国家とは、法律が整えられたことで完成した国家だったのでしょうか。
それとも、法律という共通の仕組みを持ちながら、現実の問題に対応し続けなければならない国家だったのでしょうか。
国家の仕組みは、一度完成させれば終わるものではなく、人々の暮らしや社会の変化に合わせて、繰り返し調整していく必要があったのではないか。
そのように考えると、律令国家の成立は、国家形成の終点ではなく、新しい課題が始まる地点でもあったように思います。