天武天皇と律令国家の謎|なぜ古代日本は、人と土地を把握しなければ国を動かせなかったのか【5】
都を造ることは、国家の実力を試すことだったのか
天武天皇の時代には、新しい都城を造ろうとする動きも進みました。
その流れは持統天皇の時代へと引き継がれ、694年、藤原京への遷都が実現します。
ここで、都城の建設を一つのものづくりとして考えてみます。
都を造るには、まず場所を選ぶ必要があります。
宮殿や役所をどこに配置するのか。
道路をどのように通すのか。
建物の材料をどこから集めるのか。
水の流れをどのように管理するのか。
そして、工事に参加する人々をどこから集めるのか。
それらを考えなければなりません。
宮殿を一つ建てるだけでも、多くの職人や労働者が必要です。
都城という規模になれば、その仕事はさらに大きくなります。
木材、瓦、石材、土など、多様な材料が使われます。
建築に関わる大工だけでなく、測量を行う人、資材を運搬する人、土木工事を行う人、瓦を焼く人などが必要だったでしょう。
しかも、それぞれの仕事が勝手に進められるわけではありません。
道路を造る場所に建物があれば、計画どおりには進みません。
建物の材料が届かなければ、大工がいても工事を進められません。
大勢の人が集まれば、食料や水の確保も必要です。
つまり、都城を造ることは、多くの人々の仕事を組み合わせる大規模な事業だったのです。
ここで注目したいのは、天武天皇の時代に国家制度の整備が進められ、その後、藤原京という新しい都城が造られたことです。
この二つは、別々の出来事として考えるべきなのでしょうか。
それとも、国全体の人や物資を把握し、動かそうとする仕組みが、大規模な都城建設を支える条件になったのでしょうか。
もちろん、藤原京の建設が戸籍制度の整備によって実現したと単純に断定することはできません。
しかし、国家制度と大規模な建設事業が密接に関係していた可能性は考えられます。
新しい都は、政治権力を示す建物であると同時に、国家がどれほどの人と技術と物資を組み合わせられるのかを示す事業でもあったのではないか。
そのように考えると、都城の遺構は、古代国家の技術力だけでなく、組織力を考える手がかりにもなります。
全国で同じ仕組みを使うことは、本当に合理的だったのか
ここまで、戸籍、土地制度、木簡、都城の建設などを見てきました。
これらに共通するものは何でしょうか。
それは、地域によって異なっていた人々の暮らしや生産活動を、国家として一定の基準で把握しようとする動きです。
しかし、ここで一つの疑問が生まれます。
日本列島の各地は、同じ自然条件ではありません。
広い平野がある地域もあれば、山が多く、平地の少ない地域もあります。
水田耕作に適した土地もあれば、そうではない土地もあります。
人々の暮らし方や生産活動にも違いがあったはずです。
では、そのような地域に同じ制度を当てはめることは、本当に合理的だったのでしょうか。
例えば、一定の面積の土地を同じ基準で管理したとしても、収穫量が同じになるとは限りません。
同じ人数の労働者を集めても、地域ごとに持っている技術や経験は異なります。
船の建造に適した地域もあれば、山林資源を生かした仕事に適した地域もあったでしょう。
それぞれの土地には、それぞれの条件があります。
そうした違いを十分に考えず、中央が同じ仕組みで人々を動かそうとすれば、現場で問題が生じる可能性があります。
ここで重要なのは、制度を統一することと、現場の違いを無視することは同じではないという点です。
国家として共通の基準を持つことには、情報を比較しやすくするという利点があったと考えられます。
一方、その基準を実際の地域社会に適用するには、現地の事情を知る人々が必要だったはずです。
つまり、国家制度が整えられても、地方の人々の知識や経験が不要になるわけではありません。
むしろ、中央の制度と地域の実情を結びつける役割が、ますます重要になった可能性があります。
ここから、私たちは一つの考察にたどり着きます。
律令国家の形成は、地方の力を中央の力に置き換えることではなく、地域ごとに異なる力を、共通の仕組みの中で利用できるようにする試みでもあったのではないか。
ただし、それが実際にどこまで成功したのかは、別の問題です。
制度が整っても、すべての地域が同じように動くわけではありません。
国家が定めた仕組みと、現場の暮らしの間には、さまざまな違いが残っていたはずです。