天武天皇と律令国家の謎|なぜ古代日本は、人と土地を把握しなければ国を動かせなかったのか【4】
小さな木の札が、巨大な国家を支えたのか
ここまで、戸籍や土地の記録について考えてきました。
しかし、7世紀後半の国家を考えるうえで、もう一つ注目したいものがあります。
それが木簡(もっかん)です。
木簡とは、文字を書いた木の札のことです。
古代の宮殿跡や役所跡などからは、さまざまな内容が記された木簡が出土しています。
物資の荷札として使われたもの。
人名や地名が記されたもの。
文書として使われたもの。
文字を書く練習に使われたもの。
内容はさまざまです。
飛鳥京跡苑池からも、付札や文書に関わる木簡などが出土しており、7世紀から8世紀初めにかけての文字による管理の実態を考える手がかりになっています。
ここで、不思議に感じることがあります。
国家という巨大な仕組みを動かすために、なぜ小さな木の札が必要だったのでしょうか。
例えば、ある地域から米が届けられたとします。
米俵だけを見ても、どこから運ばれてきたものなのか、誰が納めたものなのかは分からないかもしれません。
その情報を荷札として付けておけば、物資と記録を結びつけることができます。
多くの地域から物資が集まるようになれば、こうした情報の重要性はさらに大きくなります。
ただ物を運ぶだけではありません。
何を、どこから、どれほど運んだのかを把握する必要があるのです。
しかし、ここに一つの疑問が生まれます。
荷札を作るためには、木を加工し、文字を書き、物資に付ける仕事が必要です。
荷物を受け取った側でも、その文字を読めなければ意味がありません。
物資を分類し、保管し、必要な場所へ送る人々も必要になります。
つまり、木簡の存在は、文字を書く技術が広まったことだけを示しているのではありません。
物資の流れと情報の流れを結びつける仕事が、国家の運営に必要になっていたことを示しているのではないでしょうか。
小さな木の札には、遠く離れた土地と政治の中心をつなぐ役割があったのかもしれません。
そして、その木簡を作った人々、文字を書いた人々、荷物を運んだ人々の多くは、歴史に名前を残していません。
なぜ物資だけでなく、情報も運ぶ必要があったのか
例えば、ある地方から都へ百俵の米を送るとします。
米を運ぶだけであれば、船や荷車、人の力があれば可能かもしれません。
しかし、国家としてその米を管理するには、それだけでは足りません。
予定していた百俵が届いたのか。
途中で失われたものはないのか。
どの地域から納められたものなのか。
どこへ保管したのか。
誰が受け取ったのか。
そうした情報が必要になります。
そして、もし記録が間違っていたらどうなるでしょうか。
百俵届いたのに八十俵と記録されていれば、残りの二十俵がどこへ行ったのか分からなくなります。
逆に、実際には八十俵しかないのに百俵あると記録されていれば、必要なときに物資が不足するかもしれません。
これは例え話ですが、古代の物資管理でも、実物と記録の食い違いは問題になり得たはずです。
しかも、都から遠く離れた地方へ確認するには、使者を送る必要があります。
確認の返事が届くまでには時間がかかります。
現在のように、離れた場所にある情報を瞬時に共有することはできません。
そう考えると、古代国家にとって情報の正確さは、非常に重要な問題だったのではないでしょうか。
ここで私たちは、一つの仮説を考えます。
律令国家の形成とは、人や物資を集める仕組みをつくるだけでなく、それらがどこにあり、どのように動いているのかを、文字によって確認できる仕組みを整えることでもあったのではないか。
しかし、文字を書ける人が少なければ、その仕組みは広がりません。
正確に記録を作る人材を育てる必要もあったでしょう。
木簡は、単なる古い文字資料ではありません。
そこには、人と物と情報を結びつけようとした国家の仕事が残されているように思います。
天武天皇は、なぜ豪族の名前や序列まで変えたのか
684年、天武天皇は八色の姓(やくさのかばね)を定めました。
真人、朝臣、宿禰など、八種類の姓を設け、氏族の位置づけを再編する制度です。
ここで疑問が生まれます。
国家の仕組みを整えるうえで、なぜ氏族の名前や序列が重要だったのでしょうか。
税や土地の管理とは、直接関係がないようにも見えます。
しかし、当時の政治では、多くの有力氏族が役職を担い、人々や土地との関係を持っていました。
そうした氏族の位置づけを変えることは、単に名誉や身分を変えるだけではなかった可能性があります。
国家の中で、誰がどのような立場にあるのか。
誰にどのような役割を任せるのか。
政治の中心との関係を、どのように整理するのか。
こうした問題とも関わっていたと考えられます。
ただし、八色の姓を制定したことによって、豪族の持っていた地域への影響力が直ちに消えたわけではありません。
長年にわたって築かれた人間関係や、地域の生産活動とのつながりは、名称が変わっただけでなくなるものではないでしょう。
では、なぜ天武天皇は氏族の序列を改めたのでしょうか。
私たちは、ここに別の問題が隠れているように思います。
壬申の乱では、地方豪族たちの協力が勝敗を左右しました。
そのような力を持つ氏族を、国家の仕組みの中でどのように位置づけるかは、天武天皇にとって重要な問題だったのではないでしょうか。
氏族の持つ力を否定するのではなく、天皇を中心とする新しい秩序の中へ組み込もうとしたのではないか。
これは一つの考察ですが、もしそうであれば、八色の姓も単なる身分制度の変更として見るだけでは十分ではありません。
地域ごとに存在していた人や組織の力を、国家全体の中でどのように位置づけるか。
その問題に向き合う改革だった可能性があります。