天武天皇と律令国家の謎|なぜ古代日本は、人と土地を把握しなければ国を動かせなかったのか【1】
672年、壬申の乱に勝利した大海人皇子は、翌673年、天武天皇として即位しました。
わずかな従者とともに吉野を出発した大海人皇子は、東国の人々の協力を集め、政治の中心にいた近江側の軍勢を破りました。
しかし、戦争に勝つことと、国を治めることは同じではありません。
戦いの間は、共通の敵を倒すという目的がありました。
ところが、戦争が終われば、それぞれの地域には、それぞれの暮らしがあります。
田畑を耕す人々がいます。
山で木を伐る人々がいます。
鉄を加工する職人がいます。
道を造り、荷物を運ぶ人々もいます。
そのような人々が日本列島の各地に暮らしている中で、天皇はどのようにして国全体を動かそうとしたのでしょうか。
ここで、不思議なことがあります。
天武天皇の時代から持統天皇の時代にかけて、国家制度の整備が進められ、人々の身分や所属、土地の管理、官人の仕組みなどが、以前よりも細かく定められるようになっていきます。
やがて、戸籍や土地の記録をもとに人々を把握し、税や労働を負担させる律令国家の仕組みが整えられていきました。
しかし、なぜそこまでする必要があったのでしょうか。
地方の豪族たちがそれぞれの地域を治めているのであれば、従来の仕組みを利用することもできたはずです。
天皇が命令を出し、豪族たちが協力する。それでは足りなかったのでしょうか。
そもそも、古代の日本において、全国の人々や土地を把握することは、本当に可能だったのでしょうか。
今のようにコンピューターも、正確な全国地図もありません。
人口を調べるには、人が村や集落を訪ねなければなりません。
土地を測るには、現地へ行って調べなければなりません。
記録を残すには、文字を書ける人や、記録に必要な材料も必要です。
そして、作成した記録を管理し、必要なときに利用できなければ意味がありません。
これは法律を作るだけの仕事ではなく、膨大な実務を伴う国家規模の事業だったはずです。
今回の歴史探訪では、一つの謎を中心に考えていきます。
天武天皇たちが本当に必要としていたのは、すべての人と土地を支配することだったのか。それとも、日本列島のどこに、どれほどの力があるのかを知り、それを実際に動かせる国家をつくることだったのか。
古代の戸籍、土地制度、木簡、都城建設、道路、そして名もなき人々の仕事を手がかりに、律令国家が生まれていく過程を探っていきます。