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倭の五王の謎|なぜ古代日本の王たちは、中国に使者を送り続けたのか【前編】

2014.10.20

今からおよそ1600年前。

日本列島が古墳時代を迎えていた5世紀、中国の歴史書には、海を越えて使者を送ってきた倭国の王たちの記録が残されています。

讃(さん)。

珍(ちん)。

済(せい)。

興(こう)。

武(ぶ)。

現在、倭の五王と呼ばれている五人の王です。

彼らの名前は、中国南朝の宋の歴史を記した『宋書』に登場します。

宋は、現在の日本でいう平安時代に成立した宋王朝ではなく、5世紀に中国南部を支配していた南朝の宋です。

この時代、日本列島では大規模な前方後円墳が各地に築かれ、大和や河内を中心に新しい政治的な秩序が形成されつつあったと考えられています。

一方、中国大陸では南北に王朝が分かれ、朝鮮半島でも高句麗、百済、新羅などが、それぞれの勢力を拡大しようとしていました。

そのような時代に、倭国の王たちは海を越えて中国へ使者を送り、さまざまな称号を求めていたのです。

ここで、一つの疑問が生まれます。

なぜ、日本列島で王としての地位を持っていた人物が、わざわざ中国の皇帝に称号を求めたのでしょうか。

中国の皇帝に認めてもらわなければ、倭国を治めることができなかったのでしょうか。

それとも、中国との関係を利用して、別の目的を実現しようとしていたのでしょうか。

前回の歴史探訪では、百舌鳥・古市古墳群から、大和と河内の関係、海を越えた技術交流、そして巨大古墳を築いた人々について考えました。

今回は、中国の歴史書に残された倭の五王の記録から、古代日本の王たちが海外とどのような関係を築こうとしていたのかを探ってみたいと思います。

日本の歴史書にはない、五人の王の名前

倭の五王について考えるとき、最初に気になることがあります。

それは、讃、珍、済、興、武という名前が、『古事記』や『日本書紀』に記された歴代天皇の名前とは一致しないことです。

『日本書紀』には、応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇など、この時代に関係すると考えられている天皇の系譜が記されています。

しかし、倭の五王が、それぞれどの天皇に当たるのかについては、さまざまな説があります。

例えば、倭王武は雄略天皇に当たるという考え方が広く知られています。

一方、讃や珍については、複数の天皇が候補に挙げられています。

なぜ、このような違いが生まれたのでしょうか。

中国へ使者を送るときに使っていた名前と、国内で呼ばれていた名前が違っていた可能性もあります。

また、中国側が記録した名前が、倭国側の本来の名前を正確に表しているとは限りません。

さらに、『日本書紀』は8世紀に編纂された歴史書です。

5世紀の出来事を記した『宋書』の記録と、後の時代にまとめられた日本側の伝承には、成立事情の違いがあります。

ここで私は、別の疑問も持ちます。

私たちは、後の時代に整理された天皇の系譜を基準にして、古い時代の王たちを考えすぎているのではないでしょうか。

実際の5世紀には、現在私たちが考えているものとは異なる王位継承の仕組みがあった可能性もあります。

あるいは、複数の有力な王族や地域勢力が、互いに関係を築きながら王権を支えていたのかもしれません。

倭の五王の名前が日本側の歴史書と一致しないことは、単なる名前の問題ではなく、古代の王権そのものを考える手がかりになるように思います。

中国の皇帝から与えられた称号

『宋書』によれば、421年に倭王讃が宋へ貢ぎ物を送り、皇帝から称号を与える旨の詔を受けたと記されています。

425年にも、讃は司馬曹達という人物を使者として派遣しました。

その後、讃に代わって珍が王となり、438年には珍に安東将軍・倭国王という称号が与えられました。

さらに、済、興、武へと続きます。

ここで注目したいのが、安東将軍という称号です。

これは、中国の皇帝が周辺の国や勢力の支配者に与えた将軍号の一つです。

現在の感覚では、他国の皇帝から将軍という役職を与えられることに、不思議さを感じるかもしれません。

しかし、当時の東アジアでは、中国王朝から称号を与えられることが、外交上の立場を示す意味を持っていました。

そして、倭王たちは、さらに高い称号や、朝鮮半島の諸地域に関係する軍事的な権限を求めていました。

ここで疑問が生まれます。

倭国の王は、中国から称号を与えられることで、何を得ようとしていたのでしょうか。

国内の有力者に対して、自分の権威を示したかったのでしょうか。

それとも、朝鮮半島の国々との関係を有利にするためだったのでしょうか。

私は、称号を求めたという行為そのものよりも、その称号を何に使おうとしていたのかが気になります。

倭国は中国に従っていたのか

中国の歴史書には、周辺諸国が使者を送り、貢ぎ物を献上する記録が数多く残されています。

こうした外交関係は、朝貢や冊封という仕組みから説明されることがあります。

中国の皇帝が周辺の王に称号を与え、その王が皇帝に貢ぎ物を送る。

そのような関係です。

しかし、ここで注意したいことがあります。

中国の皇帝から称号を与えられたからといって、その国が中国の直接支配を受けていたとは限りません。

形式上は皇帝の権威を認めながらも、国内では独自の政治を行っていた可能性があります。

そして、外交関係を結ぶ理由も、それぞれの国によって異なっていたでしょう。

倭国の場合も同じです。

もし中国の称号が、東アジアの外交で有利に働くのであれば、倭王にとって利用する価値があったはずです。

例えば、中国の皇帝から一定の地位を認められた王として、朝鮮半島の諸国と交渉する。

あるいは、国内の有力者に対して、自分が海外の大きな王朝とも関係を持つ存在であることを示す。

そうした使い方も考えられます。

もちろん、倭王たちが実際にどのような意図を持っていたのかを、完全に知ることはできません。

それでも、私は倭の五王を、単に中国の皇帝に従った王たちとして考えるのではなく、当時の東アジアの政治的な関係を、自分たちなりに利用しようとした人々だった可能性にも目を向けたいと思います。

朝鮮半島をめぐる複雑な関係

倭の五王が中国へ使者を送った時代、朝鮮半島では複数の勢力が活動していました。

北部には高句麗。

南西部には百済。

南東部には新羅。

さらに南部には、加耶諸国などの地域勢力が存在していました。

これらの国々は、互いに交流し、ときには争いながら、政治的な関係を変化させていました。

そして、日本列島の人々も、朝鮮半島と交流していました。

鉄などの物資。

土器の製作技術。

金属加工の知識。

新しい道具。

さまざまな文化や技術が海を越えて伝わっていたと考えられます。

一方、中国の記録では、倭王たちが朝鮮半島の複数の地域に関係する軍事的な称号を求めていたことが分かります。

例えば、倭王珍は、倭国だけでなく百済や新羅などを含む地域の軍事的な権限を自称し、その承認を求めました。

後の倭王武も、同様に広い地域への権限を求めています。

ここで、私は疑問を持ちます。

なぜ、倭国の王が、海の向こうにある国々の軍事的な権限まで求めたのでしょうか。

実際に、その地域を支配していたのでしょうか。

それとも、政治的な影響力を持つために、広い範囲の権限を主張したのでしょうか

中国の皇帝から称号を与えられたことと、その地域を実際に支配していたことは、同じではありません。

また、倭王が自ら主張した内容が、実際の政治状況をそのまま表しているとも限りません。

私は、ここに外交というものの面白さを感じます。

古代の王たちも、自分たちの立場を有利にするために、さまざまな言葉や称号を使っていたのかもしれません。

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