纒向遺跡の謎|なぜ大和の地に全国から人と技術が集まったのか
歴史探訪シリーズ 第6回
奈良県桜井市。
三輪山の西側に広がる大和盆地の一角に、古代日本の成立を考えるうえで重要な遺跡があります。
纒向遺跡(まきむくいせき)です。
この遺跡が大きく発展したのは、今からおよそ1800年前の3世紀。
東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルという、当時としては非常に大きな集落が形成されていました。
そして、ここから出土する土器には、ある不思議な特徴があります。
大和で使われていた土器だけではなく、東海、北陸、山陰、吉備、さらには関東や九州など、遠く離れた地域の特徴を持つ土器が数多く見つかっているのです。
まだ日本という統一国家が成立していなかったと考えられる時代。
自動車も鉄道もなく、各地の人々が自由に行き来することも簡単ではなかったはずです。
それなのに、なぜこれほど多くの地域の土器が、纒向という一つの場所に集まったのでしょうか。
誰が人々を集めたのでしょう。
そして、集まった人々は、ここで何をしていたのでしょうか。
前回の歴史探訪では、三輪山と大田田根子の伝承から、古い土地の信仰と新しい王権の関係を考えました。
今回は、その三輪山の麓に広がる纒向遺跡から、人々の移動、ものづくりの技術、そして古代の国づくりの姿を探ってみたいと思います。
突然現れた巨大な集落
纒向遺跡は、3世紀初頭頃に成立し、急速に発展したと考えられています。
もちろん、それ以前から大和盆地に人々が暮らしていなかったわけではありません。
弥生時代には、唐古・鍵遺跡をはじめとする大きな集落が存在していました。
農耕が行われ、道具がつくられ、地域ごとの社会が形成されていたのです。
しかし、纒向遺跡は、それまでの一般的な集落とは異なる特徴を持っています。
広い範囲に建物や水路などが設けられ、祭祀に関係すると考えられる遺構も存在しています。
さらに、周辺には日本列島でも最古級の前方後円墳が築かれるようになります。
ここで、一つ疑問が生まれます。
なぜ、この場所に、それまでとは異なる規模の集落が成立したのでしょうか。
自然に人口が増え、村が大きくなっただけなのでしょうか。
それとも、何らかの目的を持って、人々が集められたのでしょうか。
纒向遺跡の成立は、古代社会の仕組みが大きく変化していく時代と重なっています。
私は、この巨大な集落の誕生に、人々が新しい社会をつくろうとした動きが関係していたのではないかと考えています。
全国各地の土器が集まった理由
纒向遺跡から出土する土器の中には、大和以外の地域の特徴を持つものが多く含まれています。
外来系土器と呼ばれるものです。
その割合は、調査地点などによって異なりますが、15〜30%に達する例があります。
これは、当時の集落としては非常に注目される特徴です。
土器には、地域ごとの違いがあります。
形。
大きさ。
表面の仕上げ方。
粘土の性質。
焼き方や製作方法。
その違いを調べることで、どの地域の土器と関係が深いのかを考えることができます。
ただし、外来系土器が見つかったからといって、その土器が必ず遠方から運ばれてきたとは限りません。
別の地域から移り住んだ人が、故郷の技術や習慣を使って、その土地で製作した可能性もあります。
ここが面白いところです。
纒向に集まったのは、土器という物だけだったのでしょうか。それとも、土器をつくり、使う人々そのものだったのでしょうか。
もし多くの人々が各地から移動してきたのであれば、そこには土器以外の文化や技術も持ち込まれたはずです。
土器は、人々の暮らしを伝えている
土器は、古代の人々にとって日常的な道具でした。
水を入れる。
食べ物を保存する。
煮炊きをする。
祭祀に使用する。
その用途によって、必要な形や大きさも変わります。
そして土器づくりには、地域ごとに長く受け継がれてきた経験がありました。
例えば、同じ煮炊き用の土器であっても、形や製作方法が違えば、扱いやすさも変わる可能性があります。
材料となる粘土も、どこでも同じ性質というわけではありません。
土の種類によって、乾燥や焼成の際の変化も異なります。
そのため、土器づくりには、土地の材料を知り、形を整え、火を扱う知識が必要です。
もし東海地方から纒向に移り住んだ人がいたとしたら。
その人々は、大和でも故郷と同じ形の土器を使おうとしたかもしれません。
あるいは、地元の人々が新しく伝わった形や製作方法を取り入れた可能性もあります。
そう考えると、外来系土器は単なる交易品ではありません。
人々が移動し、異なる文化が出会ったことを考えるための手がかりになります。
一つの土器の形に、遠く離れた土地で積み重ねられた暮らしの記憶が残っている。
私は、そこに考古学の面白さを感じます。
人が集まれば、技術も集まる
ここで、ものづくりの視点から考えてみたいと思います。
古代社会には、さまざまな技術を持つ人々がいたはずです。
木を切り、建物をつくる人。
石を加工し、道具をつくる人。
土器を製作する人。
鉄を扱い、農具や工具をつくる人。
水路を掘り、土地を整える人。
こうした仕事は、誰でもすぐにできるものではありません。
長い経験と、材料や道具に対する知識が必要です。
例えば、大きな木材を使って建物を建てる場合を考えてみます。
木を伐採するだけでは、建物は完成しません。
必要な長さに加工し、運び、柱を立て、建物全体が安定するよう組み上げる必要があります。
そのためには、作業の順序を考え、多くの人々が協力しなければなりません。
現代のものづくりでも、設計、材料調達、加工、組立など、それぞれの仕事を組み合わせて一つの製品を完成させます。
古代の大規模な建設にも、それに通じる部分があったのではないでしょうか。
纒向遺跡からは、木製品や鉄器製作に関係する遺物も見つかっています。
ただし、それらがすべて集落成立当初から存在していたわけではなく、時期の違いには注意が必要です。
それでも、纒向のような大きな集落を維持するためには、さまざまな仕事を担う人々の存在が欠かせなかったはずです。
もし各地から人々が集まったのなら、そこには異なる技術や経験を持つ人々もいたことでしょう。
新しい技術は、一人の人間が突然思いつくだけで生まれるとは限りません。
異なる知識を持つ人々が出会うことで、それまでになかった方法が考え出されることもあります。
纒向は、そうした交流が生まれる場所だったのかもしれません。
大型建物は、誰のためにつくられたのか
纒向遺跡では、規則性を持って配置された大型建物群が発見されています。
特に注目されるのが、辻地区で見つかった建物跡です。
大型の掘立柱建物が、方向をそろえて並んでいました。
その配置は、一般的な住居が自然に集まったものとは異なる特徴を持っています。
建物を一定の方向にそろえ、まとまりのある空間をつくる。
そこには、何らかの計画があったことがうかがえます。
では、誰がその計画を立てたのでしょうか。
何のために、大きな建物を必要としたのでしょう。
有力者の居館だったのでしょうか。
政治的な話し合いの場だったのでしょうか。
あるいは、祭祀に関係する施設だった可能性も考えられます。
建物跡だけで、そこで何が行われていたのかを完全に知ることはできません。
しかし、大規模な建物を計画的に建設できる社会が存在していたことは重要です。
多くの人々を動かし、材料を集め、建設作業を進める。
そこには、集落全体をまとめる何らかの仕組みが必要だったはずです。
巨大な建物が存在したこと以上に、私は、それをつくるために人々が協力できた理由が気になります。
なぜ人々は大和に集まったのか
纒向遺跡には、広い範囲から人や物が集まっていたと