鹿島と香取の神々が、いつから強く「征夷」と結びついていったのか。【後編】
鹿島と香取の神が、いつから強く「征夷」と結びついていったのか。
そこを見ると、神社の役割が少しずつ変わっていく姿が見えてきます。
東へ進むには、軍を送るだけでは足りません。
食料がいる。
馬がいる。
武器がいる。
舟がいる。
そして何より、
「なぜ東へ進むのか」を説明する物語がいる。
ただ土地が欲しいから攻める。
それでは支配する側にも、支配される側にも納得は生まれません。
そこで必要になるのが、
「これは国を治めるためだ」
「荒ぶる者を鎮めるためだ」
という物語です。
鹿島の武甕槌。
香取の経津主。
この二柱は、国譲りや国土平定の物語と結びついています。
つまり、
従わない土地へ行き、その土地を服属させる神
として語ることができます。
東国へ支配を広げる国家にとって、これほど都合のよい神もありません。
ここで私は、神そのものより、
神に与えられた役割
を見たいと思います。
もともと鹿島や香取周辺には、人が暮らしていました。
舟が行き交い、
交易があり、
漁があり、
祭りがあり、
地震を鎮める要石まであった。
つまり、すでに土地の信仰があった。
そこへ国家が入ってくる。
その祭祀を消してしまう必要はありません。
むしろ残した方がいい。
ただし、
意味を変える。
土地を守る神を、
国家を守る神へ。
大地を鎮める神を、
国を平定する神へ。
地域の祭祀を、
国家の祭祀へ。
そうやって取り込めば、古い信仰を残しながら新しい支配の意味を
重ねることができます。
そして鹿島と香取から、さらに北へ進む。
常陸。
陸奥。
胆沢。
そこでは実際に、朝廷側の軍事行動が続いていきます。
その過程で、鹿島・香取の神々が武神として重要になっていったとしても
不思議ではありません。
でも、私はここで一つ注意したいです。
東へ向かった兵士すべてが、「土地を奪いたい」と思っていたわけではないでしょう。
命令されて来た人もいる。
徴発された人もいる。
家族を残して来た人もいる。
戦いたくなかった人もいたはずです。
支配を決める人と、
実際に戦場へ送られる人は違います。
一方、東側も同じです。
全員が戦士だったわけではありません。
田を作る人。
魚を捕る人。
子どもを育てる人。
舟を作る人。
普通に暮らしていた人が大勢いた。
歴史では、
「朝廷軍」
「蝦夷」
と二つの言葉で分けられます。
でも、その中には一人ずつ生活を持つ人間がいました。
だから私は、「征夷」という言葉をそのまま読まず、
誰が命令し、誰が動かされ、誰の土地へ入っていったのか
を分けて考えたいと思います。
そして鹿島と香取へ戻ると、もう一つ不思議なことがあります。
二社には武神が祀られている。
でも、その足元には要石がある。
人を倒す神の物語と、
大地を鎮める石。
同じ場所に二つの顔があります。
私はここに、時間の積み重なりを感じます。
土地に暮らす人々の祈り。
水の道を守る祭祀。
地震を鎮める願い。
そこへ国家が入り、
国土平定の物語が重なった。
神社とは、最初から一つの意味を持っていたのではなく、
時代ごとに意味を積み重ねてきた場所
なのかもしれません。
そう考えると、鹿島・香取を「武神の神社」とだけ呼ぶのは少し惜しい。
その下には、もっと古い人々の暮らしが眠っている。
そして、その暮らしの上に、
東へ進む国家の歴史が重なった。
要石を見る時、
私は大鯰だけではなく、
その土地を離れずに暮らした人々まで想像してしまいます。
武甕槌や経津主を見る時には、
その神を連れて東へ進んだ側だけではなく、
その先で待っていた人々の姿も見たい。
鹿島と香取には、
東国を征服した側の記憶と、その前から東国に暮らしていた人々の記憶が、
同じ土地に重なっているのではないでしょうか。