水の国に立つ山、筑波山
古代の水の道を追っていると、どうしても筑波山が気になります。
霞ヶ浦やその周辺の水域を行き来する人にとって、筑波山はただの山ではありません。
遠くからでも見える。
方角が分かる。
天候の変化も読める。
舟で移動する人間にとって、山は大きな目印になります。
今の私たちは道路標識や地図を見ます。
でも古代の人たちは、山や太陽や星を見て動いていました。
そう考えると、筑波山は信仰の対象になる前から、人々の生活にとって重要な
存在だった可能性があります。
霞ヶ浦の水上から筑波山を見る。
その景色を何百年、何千年と繰り返していた人たちがいた。
朝になれば太陽が昇る。
夕方になれば沈む。
季節によって日の出の位置も変わる。
舟を出す人間なら、その変化を嫌でも覚えます。
農業をする人間も同じです。
いつ種を播くのか。
いつ収穫するのか。
いつ雨が増えるのか。
太陽と山は、その土地で生きるための暦でもありました。
だから私は、古代の祭祀を考える時に、最初から神社を見る必要はないと
思っています。
先にあったのは景色です。
水がある。
山がある。
太陽が動く。
人がそこに意味を感じる。
やがて祈る場所ができる。
そしてもっと後になって、神社や祭神の名前が整えられていった。
筑波山も、その順番だったのではないでしょうか。
『常陸国風土記』には筑波山が登場します。
そこでは男女が集まり、歌い、交流する場所としても描かれています。
つまり筑波山は、ただ遠くから拝む山ではありませんでした。
人が集まる山だった。
ここが大事です。
人が集まる場所には、物も集まります。
情報も集まります。
縁組も生まれます。
交易も起こります。
つまり祭りと生活は別々ではありません。
祈り、人と会い、物を交換し、情報を得る。
古代の祭りは、その全部が一緒だったはずです。
そう考えると、
鹿島。
香取。
息栖。
麻賀多。
筑波。
これらを全部、違う神を祀る別々の場所として見る必要はなくなります。
水の道の各所に、人が集まる場所があった。
その中には舟着き場もある。
高台もある。
湧水もある。
山もある。
人は、その土地で特に重要な場所を覚え、祈り、次の世代へ伝えていった。
そして私は、ここでレイラインを考えます。
レイラインというと、神社や聖地を一直線で結び、そこに特別な力が流れていると
いう話になりがちです。
でも私は、それよりもっと生活に近いものだったのではないかと思います。
日の出の方向。
日の入りの方向。
目印になる山。
舟で進む方向。
水路。
峠。
湧水。
こうしたものを結んでいけば、結果として重要な場所が線の上に
並ぶことはあります。
それは不思議な力ではなく、
その土地を知り尽くした人たちの知恵だったのかもしれません。
そして筑波山には、もう一つ気になることがあります。
水の世界の北西に立っていることです。
霞ヶ浦から見れば、かなり目立つ位置にある。
もし東の水域を行き来していた人たちが、筑波山を共通の目印としていたなら、
この山は単なる一地域の霊山ではなく、
もっと広い範囲の人々に知られていた可能性があります。
そうすると、日高見国の話ともつながります。
日高見国を一つの巨大国家として考える必要はありません。
むしろ、
水路でつながり、
山を共有し、
交易し、
祭りで集まり、
似た世界観を持つ人々が広い範囲に暮らしていた。
そのまとまりを、後から来た側が大きく「東の国」と見ていたのではないか。
私はそんなことを考えます。
ヤマトから見れば東。
でも、そこに住んでいる人にとっては、自分たちの普通の世界です。
湖がある。
川がある。
山がある。
魚を捕る。
米を作る。
舟を出す。
祭りに行く。
家族を養う。
誰かを好きになる。
子どもが生まれる。
人が死ぬ。
墓を作る。
それが何世代も続く。
そこへ後から、別の勢力が入ってくる。
そして「平定」という言葉が生まれる。
でも、その言葉の前には、人の暮らしがあります。
筑波山を見ていた人たちも、その中にいたはずです。
だから私は、東国の歴史を考える時に、戦いだけを追いたくありません。
その前に、
人はどこを見て暮らしていたのか。
どこへ舟を出したのか。
どこに集まったのか。
何を大切にしていたのか。
そこを見たい。
鹿島と香取に要石がある。
息栖には水がある。
麻賀多には印旛沼がある。
そしてその先に筑波山が立っている。
点だったものが、少しずつ一つの景色になってきました。